彼女は美しい人だった。
僕が彼女と知り合ったのは、組織に入ってからのことだった。ライ、スコッチとともにコードネームをもらって、幹部として活動を始めた頃のことだ。ホワイトレディから来ているのだろう、レディ、と呼ばれていた彼女は、豊かな焦茶色の髪をゆるやかに巻いていた。大きな焦茶色の目に、瞬きをすれば音がするんじゃないか、と思うほどに長くて豊かなまつ毛。ベルモットとはまた違う、美しい女性だった。
ほっそりとした体をした彼女は、僕と同じ情報を扱う人間だった。美しい外見をしている彼女にかかれば、どんな人間だって口を滑らしてしまうだろう。実際、彼女は組織のために情報をよく集めていた。
事情あってライが死を偽装し、コナン少年と結託しはじめたことを察した僕は、彼らに共闘を願い出た。僕が誰よりも愛する日本で、あきらかな越権行動を行なっているFBIに対して下手に出るのは非常に――それはもう、堪忍袋の緒がずったずたになるほど癪に触ったが。それだって、優しくしてくれる彼女の言葉で癒されるようだった。
彼女は組織にいながらも、組織のことを嫌っているようだった。キャンティと言い争い(レディのほうが弱く見えたのは、キャンティのキンキンと響く声のせいだろうか)をしているところはしばしば見かけたし、ベルモットに圧力のようなものをかけられているのもしばしば見かけた。これが一般的な社会組織であれば、パワハラやモラハラで訴えたのなら、レディが勝利をするだろうやり取りも見聞きしてきた。
彼女は特に人を殺すことを嫌っていた。情報を引き抜いた相手が、不用意な真似をしたら殺害する組織の方針に辟易としているようだった。
心優しい彼女がなぜこんな組織に、と思ってしまった僕は、定期的に行なっていた二人きりの交流会で尋ねてしまった。アルコールが少し回っていたから、というのもあったのかも知れない。彼女は赤くほてった顔をして、僕を見上げながら困ったように眉をハの字にして呟いた。行くあてがないの、と。
聞けば、生まれてからずっと組織にいたのだという。両親は組織でも大きなフロント企業の社長で、彼女には優しくしてくれたらしい。彼女のために、と用意される美しさを磨くためのアイテムや社交の知識は、いつしか形を変えていたそうだ。親の愛だと思っていたすべての贈り物は、組織のためだと気がついた時には、逃げ出すこともできなかったという。
「だめね、わたし。本当にしたかったこと、なんにもできないの」
レディは大きな瞳を潤ませて、目を伏せる。思わず僕は彼女の肩を抱いて、大丈夫、と小さく声をかけた。なにが大丈夫なのか、口に出すこともできないくせに、ただ震える彼女の肩を抱いて、優しく撫でることしかできなかった。それでも、彼女は嬉しそうにしていた。
それから、交流会とは名ばかりのバーでの逢瀬は姿を変えた。ホテルの一室を借りて、密かに酌み交わす酒と身体の関係になっていた。ひとときの時間でもいい。彼女が癒されたのなら、それでいい。
そうして、どれだけの時間が経ったのだろう。密やかな密会の後、別のホテルに一人移動して、合流した赤井を通じてコナン少年にも彼女が持っている情報を流すようになったのは。赤井もレディのことを気にかけていたらしく、証人保護プログラムを利用したいと口にしていた。僕が守るべき女性だ、と思いつつも、国外で一時的に保護を受けた方がいいのかもしれない、と思ってしまう。
ある日の密会のことだった。赤井は変装し、コナン少年を連れていくから、レディと会わせてくれないか、と僕に頼んできた。赤井とコナン少年がいれば、レディへの守りはより強くできるだろう。僕はそう考えると、彼女に相談すると返事をした。
レディは不思議そうな顔をしていたが、僕が用事があって行くことができなくなってしまった、と言えば、僕の代わりを引き受けてくれた。赤井とコナン少年への手土産の情報が入ったUSBをレディに預けた僕は、彼女を送るために車に乗る。約束の場所はなんの変哲もないビジネスホテルだった。ホテルの直営ラウンジで、大学生の顔をした赤井とコナン少年がレディと落ち合う手筈だった。
予定している時間より少し早めに到着するように車を運転し、レディをホテルの近くのコンビニ前でおろす。僕はそのまま行かなくては行けない場所があったために、その場を離れてしまったのだが――レディはUSBを化粧ポーチに忍ばせると、コンビニを素通りしてホテルへと向かおうとしていたらしい。らしい、というのは目撃者の話だからだ。目撃者というのも、彼女が直後に路地裏に引き摺り込まれていったからだ。
酷く大きな物音がしたらしく、目撃者は路地裏をたまたま見たらしい。そこにはゴミ箱が倒れていて、ゴミの饐えた臭いとむせかえる血の臭いがしたらしい。到着した警察官曰く、彼女は額を一発撃ち抜かれていたらしい。周辺に犯人の証拠は何一つそこに残っていなかったそうだ。恐怖に見開かれた目。悲鳴をあげるよりも早く撃ち抜かれたのだろう、小さく開いた口。所持品はの鞄は踏みつけられたのか、中身がぐちゃぐちゃだったらしい。メイクポーチを検分した警察官曰く、折れた口紅や砕けたパウダーに塗れて割れたUSBが見つかったらしい。それは確かに僕が渡したものだった。没収をしなかったのは、見つけられなかったからか、それとも嘲笑うためだったのかは分からない。
赤井たちに出会うことなく、助けられることなく命を散らせた彼女に、抱えきれないほどの申し訳なさと、彼女のような被害者を一人でも出さないようにしなくては、という気持ちだけが強くなっていった。
▲▼▲
「……以上です」
「フン……」
いつものようにジンは死臭を漂わせている。いっそう今日は強いような気がするので、おそらくきっと誰かを殺してきたのだろう。
この男は人を殺して悲しんだりする気持ちは持ち合わせていない。下っ端のように、力を持ったがゆえに気が強くなり横柄な態度をすることもない。ただ淡々と命を踏み潰していく。踏み潰された命の中には、組織の役に立とうとして失敗した人間だったり、組織を貶めようと躍起になる敵対組織だったり、組織を壊滅させようとする警察機構だったりと、さまざまな人がいる。そして、その中には組織から脱走しようとし人間も。
僕の報告を聞いて、タバコを咥えていたジンは、一つ大きく息を吐く。男の鼻からぶわっ、と広がって霧散する煙に、僕は思わず眉を顰めてしまう。このあたりは禁煙エリアなのだが、この男には関係ないのだろう。後ろにいるウォッカも、興味がないようでぷかぷかタバコを吸っている。
「……そういやぁよ、バーボン。お前、レディのやつと懇意にしてたんだったか」
「……なんですか、ウォッカ。情報屋同士仲良くはしていましたよ、彼女とは」
「いや、なんだ。あの女にお前も引っかかっちゃいないよな、って思ってな」
「……はい?」
純朴な、悪の組織には到底似つかわしくない彼女に引っかかるだと。
不審な顔をしたのだろう、僕は。そんな僕にウォッカは、引っかかってたんだな、と笑っている。
「ウォッカ」
「へい、兄貴」
「あんなものの役に立たねえ女の話なんざするんじゃねえ」
「へえ、失礼しました」
「なっ、彼女は組織のために――」
「はん、男に股を開いて、大したことのない情報しか拾えない女なんざ、掃いて捨てるほどいるだろうが。親が役に立ったから、幹部に仕立ててやっただけの女を処分して何が悪い」
「そうだぜ、バーボン。親の七光りでもな、役に立たねえ幹部は定期的に処分しないとな」
幹部の席は無限にあるわけじゃねえからな。
喉を鳴らして嗤ったウォッカと、鼻で嗤うジン。行くぞ、と黒いコートを翻して去っていくジンを追いかけていたウォッカは、思い出したように僕に声をかける。
「なんだ、バーボン。あの女気に入ってたのか」
「いや、僕は――」
「まあ、あの女、股の具合と見てくれだけは一級品だったからな」
ひらり、と手を振って去っていったウォッカ。その発言に思わず僕は手を握りしめる。血が出るほど握りしめて――僕は彼女がかけがえなく大切だったのだ、と痛感させられた。柔らかに微笑う彼女に、ただ穏やかな日常を与えたかった。そんな他愛のない日常を与えたい、という気持ちすら踏み躙る外道たちに、僕は正義の鉄槌を下すのだ、と怒りに目をぎらつかせた。