今日も、貴臣さんが全部やってくれる

 昨晩から仁科が優しかった。
 否、彼が美鶴に対して優しくない日などないのだけれど、昨日は特に優しかった。美鶴が誘わなければ一緒に入浴することもない男から、一緒に入浴しよう、と提案してくれた(美鶴にとって実に嬉しくて、お気に入りのバスソルトを入れたし、なんなら体も髪も彼に洗ってもらった)し、入浴後のスキンケアも手伝ってくれたし、寝る前にマッサージもしてくれた。至れり尽くせりで嬉しいなあ、と思っていた美鶴だったが、翌朝になって優しさの理由に思い至る。

「んん……動きたくないなあ……」
  
 体がだるかった。薄い唇から出ていく息が、どことなく熱を孕んでいるようにも感じる。急激に上がった外気温と、過ごしやすい快適な温度に調整された屋内との出入りで、身体の調子を崩したのだ。人一倍体が繊細な美鶴にとって、平均的な成人女性でもバテてしまう温度差はもはや凶器だった。
 美鶴自身が気がつかなかった体調を崩すサインを、仁科は見つけていたのだろう。だから少しでもだるさがマシになるように、昨日は至れり尽くせりの優しさだったのだろう。貴臣さんは優しいなあ、と美鶴はとろとろと溶けてまとまらない頭で考える。それでも、休日とはいえベッドで過ごしてばかりなのは美鶴は嫌だった。ただでさえ熱を出したらベッドに引きこもらざるを得ないのだ。多少の気だるさはあるが、動けないほどではないのだから、と体を起こそうとした。仁科用の目覚まし時計は九時を指していた。
 肌触りがよく、仁科の力で引っ張っても引きちぎれにくい(睡眠時は規格外の力の制御がゆるむため、いつもよりも布にかかる力が大きい。それでも少しでも丈夫な素材を作るのが素材開発班だ)タオルケットをばさり、と体から剥がす美鶴。のそのそと彼女は大きなベッドから降りようとする。
 ちょうどその時、小さなノックをしてから扉が薄く開かれる。仁科が立っていた。驚いた美鶴は、ぺたん、とベッドの上で座って貴臣さん、と彼に呼びかける。

「美鶴様。お身体の具合はいかがですか」
「ちょっとだるいかな……でも、起きられるから大丈夫です」
「そうですか。無理はなされぬようにしてください」
「ふふ。わたしが無理をする前に、貴臣さんがとめてくれるから大丈夫です」
「……そうですか」
「嫌だった?」
「滅相もございません。頼っていただけるのは、非常に嬉しく思っております」
「えへへ……それならよかった」

 にこにこと笑いながら、美鶴は仁科にちょいちょいと手招きをする。手招かれた仁科は、ほんの、本当にわずかだけ首を傾げるような仕草をしてから、美鶴のもとにやってくる。隆々とした山のような筋肉が、音もなく威圧もせずに自分の元にやってくるのが好きで、美鶴はかわいいとすら思ってしまう。なんなら口から出ていた。
 かわいいと言われた仁科は、恐縮です、となんとも思っていないのか、常の無表情を一ミリとして動かさない。山のような筋肉でできた体を、彼はベッドに座る美鶴のそばで膝をついて小さくする。少し日に焼けた肌、黒い髪の向こうから黄金色の切れ長の目が美鶴を見つめてくる。美鶴はその目が好きなので、ベッドの端に寄って仁科の顔に自分の顔をずい、と近づける。鼻先が触れ合いそうなほどの距離で見つめ合って、先に気恥ずかしさから目を逸らしたのは美鶴だった。
 目を逸らしてから、美鶴は片膝をついている仁科の腿の上に体を下ろす。仁科の半分ほどの薄さと厚みしかない美鶴の白い体が乗ったところで、仁科はよろめくことはない。頑強な岩のような安心感すらある腿の上に腰を下ろした美鶴は、仁科の首に腕を回す。太く分厚い筋肉の装甲で覆われている仁科の屈強な首に、真っ白く、細い骨と最低限の筋肉と脂肪で覆われた美鶴の腕が巻き付いても、頼りなく見えるのは彼女の腕だった。
 仁科の首筋に顔を埋めた美鶴は、すん、と匂いを嗅ぐ。ほのかに香る彼の体臭と、少しだけ石鹸の香り。走ってきて、シャワーを浴びたのかもしれない、と美鶴は考えながら、抱っこして、と彼に頼む。すぐさま仁科の丸太のように太く分厚い腕が、美鶴の体を安定させるように回される。

「あのね、今日、パジャマのままでもいいかな……?」
「私は咎めません。美鶴様がそうしたいのであれば、そのようにしましょう。替えの寝巻きもございます」
「ん、じゃあ、そうする……」

 リビングまで運んで、と美鶴が甘えを多分に含んだ声で、仁科の耳に声を吹き込む。仁科は承知しましたとだけ言うと、ゆっくりと彼女の体を抱き上げる。仁科の両腕で支えられ、微塵の揺れもなく持ち上がる美鶴の体。一気に目線が高くなったことに、んふふ、と美鶴は楽しげな声をあげる。
 静かにリビングまで美鶴を運んだ彼は、ソファーに美鶴を座らせようとする。それを察した美鶴は、仁科の首にきゅ、としがみつく。嫌ですか、と仁科が尋ねると、ううん、と小さく首を振る。

「貴臣さんにくっついてると、気持ちいいから、もうちょっとこのままがいいなあ……って」
「そうですか」
「うん……それにね、貴臣さんにくっついてるとね、だるいなぁ、って気持ちがなくなるの……」
「それはなによりです」
「だから、その……もうちょっとだけ、こうしていたいなあ……」
「承知しました。お加減がよくなりましたら、お申し付けください」

 美鶴の要求を飲んだ仁科は、彼女をかかえたままソファーに腰を下ろす。頑丈なケースに収められたソファー、と設計開発をしたスタッフたちも満足のいく頑丈さを誇るそれは、仁科の体重や荷重を受けてなお軋む様子は見受けられない。
 ふ、と視線をずらした美鶴は、ローテーブルに仁科の湯呑み(たっぷり七百ミリリットル入る大容量で、仁科の百三十キロの握力にも耐えられる仕様だ。食洗機には対応していない)を見つけて、そこで喉が渇いていることに気がつく。起きてからまだ水分を摂っていない彼女は、じっ、と湯呑みを見る。それを確認した仁科は、長い腕を伸ばして湯呑みを取ると、彼女の口元に運ぶ。きょとん、とした彼女は、思わず仁科の顔を見る。

「飲んでいいの? 貴臣さんのじゃないの?」
「私は先ほど水分補給を済ませましたので、問題はありません。美鶴様はまだ水分を摂取していないので、私の湯呑みで申し訳ありませんが、こちらで水分補給を済まされた方がよいかと」
「そう……? じゃあ、ちょっとだけ……」

 湯呑みをしっかりと握った(その上から、仁科がしっかりと片手で湯呑みを支えていた。なにせこの湯呑みは美鶴には重すぎるものだからだ)美鶴はそっと湯呑みに口をつける。冷たいほうじ茶が喉を伝って胃に落ちていく。冷蔵庫から出したばかりだったのだろう。その冷たさはキン、としていたが、それが体の中から冷やしてくれるようで心地よかった。
 んくんく、と湯呑みの三分の一ほど飲んだ彼女は、もう十分だと湯呑みから口を外す。湯呑みをローテーブルに置いた仁科に、ひとつぎゅっ、と抱きついてから、美鶴は歯磨きしてくるね、と立ち上がる。ふらつくこともなく立ち上がった彼女を、頭の先から足の先まで軽く見分した仁科はゆっくりと口を開く。

「お加減は問題ありませんか」
「うん。すっきりしたよ」
「なら、よかったです」
「えへへ……わたし、歯磨きしてくるね」

 そう言って、ぺたぺたと素足で洗面所に向かった美鶴を見送り、仁科はソファーから立ち上がる。ゆっくりと寝室の扉を開いた彼は、ベッドメイキングをすると、ベッドサイドに転がっていた美鶴の小さなルームスリッパを拾い上げる。仁科もお揃いにされた、片手に両足分が乗るほどの小さなふわふわもこもこのふわみつスリッパを拾うと、彼は寝室を後にする。
 美鶴の向かった洗面所に向かうと、彼女は扉を開けっぱなしにして顔を洗っていた。歯も磨き終えたらしく、彼女はタオルで顔を拭うと、お顔を洗うとすっきりするね、と仁科に笑いかけてくる。化粧水を顔につけている彼女の足元に、仁科はそっと寝室から持ってきたルームスリッパを置く。彼女はそれに気がつくと、ありがとう、と美容液を顔につけながら履く。

「冷えは足先からきます。先ほど、気がつけずに申し訳ありません」
「ううん、いいの。だって、貴臣さんの両手はわたしを抱っこしてくれていたでしょう? だから仕方ないの……あ、あとね、貴臣さん」
「なんでしょうか」
「歯磨きしたら、お腹空いてきちゃったの……なにか、簡単なのでいいの。食べたいな、って」
「かしこまりました。ご希望のメニューはありますか」
「んーっと……さっぱりしたのがいいな……」
「なるほど……塩そぼろの茶漬けはいかがでしょうか。胃に負担もかけにくいですし」
「わぁ……! おいしそう」
「りんごと生姜のホットスムージーも作りましょう」
「ふふ、楽しみになっちゃう」

 貴臣さん、ご飯作るの上手だから、とっても楽しみ。
 そう花が綻ぶように笑う美鶴に、恐縮です、と仁科は頭を下げる。無表情な彼の頭の中では、自分の昼食用に準備していた塩そぼろを彼女のために取り分けることと、りんごと生姜をすりおろしたら蜂蜜を少し多めに使おう、ということがタスクリストとして記載されていた。そんな彼の腕を引いて、美鶴はリビングダイニングに向かう。
 仁科がキッチンの作業台に向かうと、美鶴はダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。そのまま彼女にしては珍しく、お行儀悪くダイニングテーブルに腕を伸ばして、ぺたん、と上体をつける。片頬をテーブルにつけた美鶴は、きらきらとした目で作業をしている仁科を見つめる。後ろにも目があるのではないか、と警備部門の新人スタッフたちが噂をしている仁科のことなので、きっと美鶴が見ていることなどお見通しなのだけれど、彼は彼女がお行儀悪くしていることを注意しなかった。
 それをいいことに、そのまま美鶴は体温でぬるくなってきたダイニングテーブルに頬をつけたまま、ぽうっと仁科が鶏そぼろの調理をしているのを見守るのだった。

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