栫井優は電車の車内広告を見ていた。たまたま――本当にたまたま見かけたその広告には、コーヒー博覧会と銘打たれていた。
優はコーヒーがそれほど好きなタイプではないが、嫌いなタイプでもない。あれば飲むが、なければ淹れるほどではない、というくらいだ。しいて言えば、紅茶よりはコーヒーのほうが好きかな、ぐらいだろうか。
車内広告のレイアウトが目を引くものがあった。具体的には、千種川との待ち合わせ場所を変更してもいいか、と思う程度には効果があった。場所の変更する旨をチャットアプリで連絡をすれば、すぐに了解した旨がとんでくる。変更先の場所を告げ、優はスマートフォンのアプリを切り替えて、インターネットブラウザーで急遽行くことにしたイベントについて調べる。
イベント名で検索をすれば、本日から開催されるらしい。もう少し検索をすれば、ちょうど開始時刻に電車がその駅に到着する見込みなのがわかる。
車内アナウンスが駅に滑り込むことを告げるから、彼女はスマートフォンをカバンにしまって立ち上がる。グラマラスでゴージャスな彼女の肢体に、ちらちらと視線をよこしていた隣の男がびくりと体を跳ねさせたのを無視して、優は停止した電車から降りていく。
どの出口に向かえばいいのかは、改札を抜けてから考えよう――そう考えて、優は改札口でICカードをタッチさせて抜ける。運があるらしく、ちょうど彼女が改札を抜けたところで、右手前に大きな博覧会の広告が張り出されていた。広告に書かれている通りに出口に向かうと、ちょうど千種川が反対方向の通路からやってくるのが見える。
「お、ナイスタイミング」
「きみを待たせなかったようでなによりです。ところで、こちらのイベントのことを、君は事前に知っていたのですか?」
「いや、知らないわよ。たまたま電車の車内広告を見ただけ。別に今日だって喫茶店に行くだけなんだし、別にこっちのイベントに変更したって問題はないでしょ?」
「ええ、問題はありません。ぼくはきみがしたい、と思案したことを優先していますので」
細く長い地上につながる階段を歩きながら、二人はそんなやりとりをする。地上に出ると、どんよりとした曇り空が出迎えてくれて、わずかばかりにコーヒーの香りが漂ってくる。周囲を伺えば、ちょうど白や黒、深い緑色のテントが見える。どうやら、イベント会場のすぐ裏手の出口のようだ。
イベント会場の広場に向かうため、二人は横断歩道を渡る。スタンプラリーやってます、という掛け声や、社会実験にご協力ください、という声が聞こえてくる。社会実験、という言葉に千種川が反応して、声がした方に顔を向ける。声がした先では、黒い布と思しきスリーブをつけた鈍色のカップを持った男性がいた。どうやら、カップを配っているようだ。
千種川が男性のほうをじっと見ているから、優もそちらを見る。ほかの客を見る限り、無料で配布しているようだったから、もらいに行くわよ、と彼女は千種川に声をかけて歩き出す。
配っている男性も二人に気が付いたらしく、視線を二人に向ける。少しばかり驚いたような顔をしていたのは、二人が目立つ容姿をしているからだろう。すぐに取り繕って穏やかそうな笑みをたたえた彼は、このアルミカップのスリーブが自動車などで使われるシートベルトの端材で作られているのだ、と教えてくれる。協力してくれたコーヒー販売店舗のロゴがいくつかあしらわれたそれを二人が受け取ると、楽しんでいってくださいね、と男は満足そうな笑顔を浮かべている。
「アルミのカップですか。熱が伝わりやすいので、ホットコーヒーを飲むときは、カップを直接持たないほうがいいでしょうね。そのためにシートベルトのスリーブが装着されているのでしょう」
「考えるわよね。まあ、洗って何度も使えるカップなら、家でもコーヒーとか飲むときに便利ではあるし、こういうイベントで紙コップをあっちこっちでもらうよりは、洗ってアルミカップで飲んだほうが経済的よね」
「そうでしょうね。それもあって、アルミカップを頒布しているのでしょう」
優と千種川はアルミカップを手に、近くのコーヒーショップのテント前に置かれた看板を見る。産地や風味が書かれたそれらを参考に適当にまずは一杯飲もうという話になったが、開始してさほど時間がたっていないにも関わらず、入り口近くの店舗には大勢の人であふれかえっていた。
だから、二人は少しだけ歩く。イベント広場の中心近くまで来ると、コーヒーに合う豆菓子の販売コーナーや、軽食を売るキッチンカーが見えてくる。カレーパンだったり、ピザだったりを販売しているのを見ながら、たまにはこういうところも悪くないわね、と優は比較的空いているコーヒーショップの列に並ぶ。
「そうですね。普段は見かけないショップもありますし、実に興味深いです」
「こういうところで食べたり飲んだりするのってさ、普通に店で食べたりするよりもお金とられるけど、楽しさを買ってると思えばなんてことないんだよね」
「そういう考えもありますね。きみもイベントを楽しむということがあるんですね」
「人を冷血漢みたいに言わないでよ。あたしだってイベントは普通に楽しむわよ」
「そうですね。たしかに、きみは季節行事などは楽しんでいますね」
思い出すようなそぶりをしながら千種川がそういうと、優は季節行事は年に一回だから楽しいのよ、と満足そうに笑う。それを聞いた彼が、年に複数あるのは好きじゃないんですか、と尋ねる。年に何回もあったら特別感が薄まるから、と優がいえば、きみもそういうことを思うのですね、と千種川は少し不思議そうに首をかしげる。
「無頓着、とは言いませんが、行事ごとに特別感を感じているとは思ってもみませんでした」
「あたしだって、一応社会的にはまだ子どもだからね」
「きみの精神的な成熟さを考えると、社会的には庇護されるべき子どもであるということを失念してしまいます」
「たまには思い出してほしいわね、そのへんのこと」
優はあきれたように鼻で笑いながら、スタッフにブレンドコーヒーをアイスで二つ頼むのだった。