霧の濃い日のことだった。男はひたすら走って逃げていた。
街中を駆け抜け、路地裏を通り抜ける。駆け込んだ先の廃ビルに駆け込もおうとしたとき、男は急に首根っこをひっつかまれる。男は思わず、うわっ、と声を上げるが、ひっつかんできた男もまた、嘘だろぉ、と大きな声を上げる。手を離すように男に訴えようとするが、男はこっちだ、と路地を駆けていく。しかたなく捕まれた方の男も先導する男について行く。
路地を抜けた先には一台のバンが停まっていた。スモークが貼られて内部は見えないが、男たちが近づくと扉が開かれる。中にいたのは時代錯誤な書生服を着た男だった。げんたろぉ、と引っ張ってきた男は呼びかけていた。
「おや、帝統。拾いものですか?」
「そそ! 途中で拾っちった!」
「そうだ! 俺は組織から逃げる必要が、」
「だったら、わっちらと逃げればいいでやんす」
「ま、とりあえず車乗ってよ」
帝統、と呼ばれた男に後ろから押し込まれ、男――諸伏景光は車に乗せられる。帝統が乗り込むと同時に車は走り出す。ぴぴっ、と扉が開きっぱなしであることを知らせる警告音が聞こえて、慌てて扉を閉める帝統。いやー危なかったな、と笑う彼に、借金は返済できそうですか、と書生服の男が尋ねる。おうとも、と言った彼は、車がどこに向かっているのか、と運転している少年に尋ねる。
まるで子どものように背の低い彼は、横浜、と元気に答える。
「さっき、左馬刻から連絡があってさぁ。帝統が行ってたところに、左馬刻のトコから逃げ出したひとがいるらしいんだって!」
「なんでも、組からお金を持ち逃げしたらしいですよ。見せしめに襲撃するとか」
「やっべー! めっちゃ俺稼いで来た場所じゃんかよ!」
「……いや、君はなんで追われていたんだ?」
「ちょーっと稼ぎすぎて、目ぇつけられて? 引き際見極めて、ついでに出るときにイカサマ指摘した!」
目の色変えて追われてやべーのなんの! 助かったわ乱数!
げらげらと笑う帝統と名乗った男に、景光は頭が痛くなる。こんなところに違法と思われる賭博場があって、そんなところにこの青年は出入りしていたらしい。警察官としてはどうしたものか、と思っていると、車が向かう先から、何台かの車がやってくる。どの車も目隠しのスモークが貼られている。乱数と呼ばれた少年は路肩に車を一次停止させると、振り返って景光を見るとにっこりと笑う。
「帝統のおかげで今からヤクザ同士の抗争が始まるし、ついでにオニーサンの死亡工作もしてもらっちゃお!」
「お、いいなそれ!」
「でしょでしょ! 左馬刻に賭場の場所教えたから、お礼してもらわないといけないし? だったら、こわーい人たちに追われてそうなオニーサンを逃がすお手伝いしてあげる!」
「そ、それは助かるが……それで君たちに何か利益があるのか?」
降ってわいた救いの蜘蛛の糸に、景光は不信感を募らせる。それもそうだろう、当然のことだ。そんな景光の言葉に、乱数はにんまりと笑う。オニーサンにはちょっと手伝って欲しいことがあるから大丈夫、と。今はとにかく助けてもらうのが先決だ、と景光は考えを切り替えて頷く。それに気を良くした少年はちょっと待っててね、とスマートフォンで連絡している。スピーカーから怒鳴り声が聞こえてくるが、そんなこと彼は意に介していない。
その間に偽装工作に必要になるから、とスマートフォンを景光は拳銃で打ち抜く。その間にも数台のスモークの貼られた車が通り抜けていく。通話が終わって少し経つと、引き返してきた車が、路肩に止まっていた彼らの車の真横に停車する。オニーサンスマホ、と乱数に言われるがままに、壊したスマートフォンを渡した景光。乱数は停車した車に壊したスマートフォンを渡すと、すぐにその車はUターンをして引き返していく。それを見送ることなく、四人を乗せた車は走り出していく。
「これでしばらくダイジョーブ!」
「ほ、本当なのか……? というか、左馬刻、ってもしかして、」
「おや、ご存じでありんしたか? 指定暴力団というものでござる」
「やっぱり、火貂組の!」
「おお、知ってんのか」
景光は頭が痛くなる。この車の人間は指定暴力団・火貂組の若頭の知り合いらしい。どういうつながりなのかは知らないが、どうやら自分はヤクザとの抗争に巻き込まれて死んだことにされるらしい、というのだけは分かった。
横浜に向かって走る車の中では、それぞれが自己紹介をしてくれた。出した本のすべてがベストセラーになる夢野幻太郎、人気ファッションデザイナー飴村乱数と自称ギャンブラーの有栖川帝統。どういう因果かは知らないが、仲のいい三人組らしく(彼らは自分たちをラップチームだよ、と言っていた)素寒貧になった帝統に金や寝床、食事を提供したり、貸した金を回収したりしているらしい。
横浜に入ったあたりで、車はある雑居ビルの地下駐車場に向かう。適当な駐車エリアに車を止めると、ビルにつながる出入り口にやおら背の高い男性が立っているのが見える。車から降りた帝統が、リオーさんだ、とうきうきで駆け寄っていくから、おそらく知り合いなのだろう。乱数と幻太郎もそれに続いていくから、景光もまたついていく。夕日色をした髪を短く切りそろえた男性は、近くで見るとずいぶんと背が高く、乱数と比べるとまさに大人と子どもぐらいの背丈の違いがある。
「小官は毒島メイソン理鶯だ。有栖川、この男が拾った、という男か」
「そっすね! えーっと……」
「諸伏景光です」
「諸伏か。案内しよう」
先頭を歩く理鶯と名乗った男についていく。エレベーターで移動した先には、ワンフロアぶち抜いた事務所があった。聞き慣れない企業名だったが、きちんとした企業ブースらしく、受付があったが、もう社員は帰ったのだろう。受付にもその奥の事務スペースには誰もいなかった。
理鶯はそれに興味も示さず、奥の扉をノックする。扉の向こう側から、おう、と言う声が聞こえて、彼は扉を開ける。そこには休憩スペースのようで、簡易キッチンが設置されていて、ソファーもあった。革張りの黒いソファーには白髪の青年が腰を下ろしていた。彼がこちらを見ると同時に、乱数が左馬刻ぃ、とにこにこ近寄る。
「ンだよ。で、ソレが拾いモンか」
「そーだよ! 賭場の場所教えた代わりに助けてあげてほしーオニーサン!」
「マ、あの賭場の情報は正直助かったからな……死体偽装ぐらい、ウサポリ公にでっちあげしてもらえばいいしな」
「ええと……」
「それでさぁ、左馬刻に助けてもらったオニーサン、どうしよっかなって。こっちで引き取ってもいい?」
「あ? あー……こっちの手伝いもするって言うならいいぜ」
「やったー! オニーサンもそれでいいよね?」
乱数にそれでもいい、と言われたが、景光には否と答える理由がない。むしろ、ここでそのような答えをしたら何が起きるか分からなかった。左馬刻の剣呑な赤い目は鋭く光っていたし、理鶯の青い目も無感動に景光の一挙手一投足を見ていた。
景光がなにをすればいい、と尋ねると、タバコをふかしていた左馬刻は簡単なおつかいだよ、と嗤う。
「横浜……まあ、神奈川あたりは俺ら火貂組の本家が押さえてるようなモンだからな、いくらでも情報は入ってくンだわ。関東圏は割と俺らのシマみたいなもんになってるしな」
「ああ……俺もそれは警察にいたときに聞いている」
「あ、オニーサン警察の人だったんだね! わるぅい人に追いかけられてるってことは……スパイだったりして!」
「ま、あ、そんなところだな……それで、俺は何をおつかいさせられるんだ」
「そんなに身構えンなって。ポリ公ならハナも利くだろ」
俺たちに楯突こうってやつらの噂とかよ、俺らのしらねえ賭場を見つけたりよ、ヤクの話を聞いたら真っ先に連絡して欲しいんだわ。
ぷかぷかとタバコをふかしながら、左馬刻はそう告げる。景光は言われた内容に、それだけでいいのか、と思わず言ってしまう。薬物は御法度だと聞いたことがある火貂組だが、仮にも指定暴力団。殺しの手伝いや、死体の処理などをさせられるのではないか、と内心思っていたのだ。
拾ったのは乱数だからよ、と言った左馬刻。じゃあ渋谷で飼ってもいいか、と乱数は確認する。好きにしろや、と言った彼に、やったぁ、と喜ぶ乱数。未だ戸惑っている景光に、乱数が飽きても小生が最後まで面倒みますよ、と笑う。
「戸籍も偽装しねえといけねえか」
「名前はこっちで決めるから、出来たら作ってくれる?」
「いいぜ。……ところで、お前。ポリっつったよな。所属はどこだ」
「……公安だ」
「げっ」
舌打ちを盛大にした左馬刻は、死体偽装してもばれるな、といらだたしげにタバコを消すと、苛立ち満載でスマートフォンを操作している。どうやら、抗争場所で最後に火災を起こすつもりのようだ。景光の代わりの死体は歯を全て抜かれているらしいが、可能な限り死体の出所を隠滅するつもりらしい。それでも、公安に所属している捜査官である景光の歯形などはごまかしができないだろう。それに気がついているから、左馬刻の機嫌は悪いのだろう。――もっとも、この男の機嫌がいい時なんてほとんどないのだが。
景光は少しだけ申し訳ない気持ちになりつつも、乱数たちが景光の偽装用の名前をどうするかで盛り上がっている内容を聞いていた。渋谷なんだからハチは使いたい、と話していて、ハチ公な名前になりそうだな、と景光はぼんやり考えていた。