夜の湾岸沿いを二台の車が駆け抜けていく。
風を切り、何かから逃げるように走る車の後ろには、別の車がある。付かず離れずの距離で追いかけている車の中では、後部座席を陣取っている男・理鶯が無言で銃火器に鉛玉をこめていた。たばこの煙が薄く空けられた窓から少しずつ吐き出されていく車内では、たりィな、と呟いた声があった。その声に応じる声は苛立ちにまみれている。
「たりィのはこっちだわ。ンでヤクザぶっ殺したヤツを俺の車で追いかけンだよ」
「あ? 連絡があったときにウサポリがそこにいたからだろ」
「ウン。我々が事務所にいるときだったな」
「事務所に呼びつけたのは左馬刻だろうが」
「あァ? てめぇ自分が車出してやるっつったの忘れたのかよ」
「あ? てめぇが自分の足出すのが遅かったのを、俺のせいにすんじゃねぇよ」
銃兎と左馬刻がお互いをけなし合っている間も、淡々と理鶯は愛用のライフルを一度構える。問題なく狙撃が出来るだろう事を確信した彼は、銃兎、と声をかける。
「次の直線でタイヤを撃つ」
「わかりました。何秒ですか」
「五秒もあれば十分だろう」
湾岸沿いのゆるやかなカーブを曲がり、追いかける車も、追われる車も長い直線に入る。日中に比べれば、ずいぶんと静かな直線道路に入ると、銃兎は車が無駄に跳ねないように細心の注意を払う。左馬刻も先ほどまでのやりとりなどなかったと言わんばかりに、吸っていたたばこを灰皿に押しつける。ふたりの行動は、理鶯の集中を切らさないためだ。
窓を開けた理鶯は、そのまま上半身とライフルをぬっ、と出す。車の車体をなでる風が、理鶯の身体を嬲りつけてくる。透明度の高い青い瞳は、暗視ゴーグル越しに後部タイヤを見定めると、重たくもなくなった引き金を引く。サプレッサーでいくらか静かになっているとはいえ、鋭い音が夜を切り裂く。ライフルを発砲したという、鈍い衝撃が理鶯の身体を襲う。心臓に直接響くような重たい衝撃に、軍人としての本能がときめきを覚える。
その本能を抑えるように、理鶯はライフルごと窓から出していた上半身を車の中に戻す。追いかけていた車は、狙撃されて一つのタイヤがパンクしたからだろう、左右に大きく揺れる。それでもあがくように、這いずるように車は少しでも歩みを進めようとしている。
わずかなあがきに、銃兎はにたり、と怜悧な美しい顔に獰猛な笑みを浮かべる。隠し持っていた牙をひけらかすような、賢くも獰猛なそれを浮かべながら、アクセルを踏みこむ。違反切符が切られる速度は、とっくに超していた。
エアーの抜けたタイヤが擦れる嫌な音と、高速度で走っていたことと、突然抜けた空気のせいもあって、溶けかけたゴムの嫌な臭いが混ざり合う。鼻に抜ける嫌な臭いを撒き散らしながら、左右に揺れて、ぎゅるぎゅると回りながら停車した車。スピンして止まった車から、ほうぼうの体で逃げ出した男は、蹌踉めきながらも走ろうと藻掻く。
縺れながら逃げようとする男を、左馬刻たちは悠然とした様子で追いかける。追いかけるほどの距離もなかった。左馬刻たちの長いコンパスは、あっという間に四つん這いで逃げようとする男に追いついてしまう。
「おいおい、おっさん。そんな必死に逃げるぐらいなら、最初から殺らなきゃよかっただろうがよ」
「全くですね。大人しく金を支払っておけば良かったものを」
左馬刻は長いコンパスで、彼らに背を向けて逃げようとする男の頭を蹴り付ける。横に吹き飛んだ男の頭頂部に足を乗せた彼は、そのまま体重をかける。鈍い苦痛の声をあげた男は、逃げようともがく。そのまま頭を蹴り付けた彼は、派手な音を立ててアスファルトに顔面をしたたかに打ちつけた男を見下ろす。鼻血を出しながら振り返った男は、顔をぶつけた衝撃で涙を流している。
ひ、と引き攣った声をあげる男に、理鶯がアルミワイヤーで男の手を後ろ手に固定する。親指同士を括ると、足首を同じように括る。身動きがとれなくなった男を、理鶯はどうする、と左馬刻に尋ねる。トランク、とだけ言った彼に従った理鶯は、自分たちが乗ってきたトランクを開ける。そこには大きなキャリーケースが入っている。七泊八日ぐらいの旅行ができそうなキャリーケースをトランクから引っ張り出した理鶯を見て、銃兎はこの男が入るのか、と秀麗な眉を釣り上げる。
なにせ、この男はぶくぶくのビール腹をしているのだ。中背とはいえ、脂肪がつきまくった体を捩じ込めるのか。しかし左馬刻は、カカ、と嗤う。
「なんだぁ、銃兎。お前の車に、このおっさんの脂くっつけたかったのか?」
「は? 嫌に決まってるだろ。理鶯、それ、キャリーケースに詰め込んでください」
「ウン、今から詰め込もう」
ぎゅうぎゅうとトランクに男を折り込む理鶯。うるさく喚く口は、トランクの中に置いてあったガムテープで固定する。みっちみちに詰めこまれて暴れようとする男を無視して、理鶯は無理やりキャリーケースのファスナーを締める。完全には閉まらなかったが、大部分は締まったことを左馬刻に報告すると、まあいいか、と彼はたばこをふかす。
理鶯が男の入ったキャリーケースをトランクに放り込むと、左馬刻はスマートフォンで連絡をする。事務所で舎弟に引き渡す事になったのを銃兎に伝えた彼は、そのまま助手席に座る。はいはい、と肩をすくめた銃兎は運転席に座ると、アクセルを踏み込む。Uターンをして来た道を逆走し始めた。
火貂組事務所近くでトランクを引き渡した三人は、そのまま銃兎の住むマンション近くで営業している安い大衆居酒屋を訪れていた。車は当然銃兎のマンションの駐車場に置いてきた。
カウンター席に三人並んで座り、仕事終わりだし、とビールを三人分注文する。カンパーイ、とジョッキをぶつけて酒を仰ぐ彼らに、隣の席に座っていた、恰幅のいい男が声をかけてくる。
その男は黒いサングラスをかけていた。室内でも外さないのは不審だが、そのサングラスが妙に似合っていたから、仕事終わりかい、と声をかけられた左馬刻はオウ、と返事をする。
「こんな時間まで大変だなァ、兄ちゃんたちも」
「まあ、チッと面倒くせぇことに巻き込まれたんでな。まあ、それも部下に押し付けてやったけど」
「はは、部下も大変だな」
「そもそも、その部下がヘマしなきゃあ、こんな時間に仕事なんざしなくて済んだんだよな。尻拭いしてやる俺様、優しいだろ?」
「そいつぁ優しいな。うちのアニキだったら、へましたやつのドタマどついておしまいだな」
「部下を教育するのも上司の仕事だからな。お前のアニキはそういうの苦手な部類か?」
「言われりゃそうかもな。現役で現場の最前線出てるな」
「いつまでも現役でいられりゃいいけどよ、怪我だなんだのあるだろ」
そういう時に使える手駒を増やすためにも、日頃から仕事を仕分けてやるのも上司の務めだからよ。
そう嘯く左馬刻に、理鶯を挟んで反対側に座る銃兎は、お前は面倒くさがってるだけだろ、とツッコミを入れる。兄ちゃんたち仲が良いな、とサングラスの男は笑いながらジョッキの中を飲み干して、追加注文をしている。
「小官たちに裏切りはないからな」
「おう。俺達は倒れるときも、揃って前のめりってな」
「いいねえ、一蓮托生ってやつか」
「そんなきれいなものでもないですけどね」
「俺のアニキも、そういうのがいりゃあいいのかもなあ」
「アニキさんはいないんですか? そういう背中を預けられる相手は」
「いねぇな。マ、そんなアニキはアニキじゃねえしな」
アニキは孤高の一匹狼みたいなところがいいんだよ。
そう話した男は、なにやらスマートフォンを触りはじめる。左馬刻たちが頼んだ唐揚げがちょうど届いたので、三人はおもむろに唐揚げをつまみはじめる。そんな様子を見た男は、こんな時間に重たくねえのか、と驚いたように口を開く。
「運動してきたからな。カロリー摂らねえとやってらんねえよ」
「なるほどな。そいつぁ、そうかもな」
よっこいせ、と立ち上がった男に、理鶯は帰るのか、と尋ねる。明日も朝から仕事でね、と肩をすくめた男に、銃兎は大変ですね、と苦笑する。銃兎はちなみに明日は夜勤だ。
外に車を回してもらうからよ、と去っていく男に、左馬刻がアニキにもよろしくな、と声をかける。かけられた男は手を上げて返事をすると、会計をレジカウンターで済ませ始める。
男が立ち上がった時に薄く香った、硝煙と煤と、血の匂い。アルコール臭くても、左馬刻たちには嗅ぎ慣れてしまった、親しみすらあるそれを纏う男。きっと敵対組織の一人かもしれない男だったが、お互いに踏み込まずに酒で盛り上がることくらい、たまにはあることだった。