絢瀬はボディクリームを全身に広げて塗り終えると、手のひらにヘアオイルを少量とった。洗い流さないタイプのヘアオイルを髪につけて、ヘアブラシで梳かしていく。濡れたままの髪にオイルが十分に伸びたところで、絢瀬はドライヤーに手を伸ばす。ちょうどその時だった。
「アヤセ、もうお風呂出たかい」
「ええ。今から髪を乾かすところよ」
「そうだったんだね。じゃあ、私が乾かすよ」
「あら、そのぐらいできるわよ」
「私がやりたいんだ。ね、いいかな?」
「……しかたないわね」
呆れたようにため息をひとつ吐きながら、絢瀬は手にしていたドライヤーをヴィンチェンツォに手渡す。筋肉のしっかりついた手のひらにおさまったそれは、おもちゃのように小さく見える。絢瀬のほっそりした手のひらの上にあったときは、ちゃんとドライヤーらしく見えたのだけれども。その対比が面白くて、絢瀬はくすくすと笑いながら、ヴィンチェンツォに背を向ける。
なにか面白いことでもあったのかい、と尋ねてくる彼に、なんでもないわ、と返事をする。ふうん、と不審そうだったヴィンチェンツォだったが、ドライヤーのスイッチを入れると、優しく絢瀬の髪に手のひらを差し込む。内側から髪を持ち上げるようにして温風を当てられていく。他人にしてもらうと気持ちいいのよね、とドライヤーの音に負けないように独り言をいう彼女に、プロがやってくれると眠くなるよね、とヴィンチェンツォも返事をする。
「そうなのよね。ドライヤーをかけてくれる間、眠くなってくるし、なにより音が大きくて何も聞き取れないのよね。せっかく丁寧にブローする方法を教えてくれているのに」
「わかるよ、それは。だから私、ブローについてはドライヤーが終わった後に、もう一回聞くようにしているんだ」
「あら、そういうやり方があったわね。気がつかなかったわ」
「ふふ。私のブローはプロに教えてもらったものだよ」
茶目っ気たっぷりにヴィンチェンツォは笑う。朗らかなその声に、それじゃあ眠くなっちゃうわね、と絢瀬は笑う。
内側から持ち上げるように乾かし、時々頭皮を指の腹で擦る。前髪を左右から風を当てて乾かし、耳周りと襟足を乾かしていく。後ろの髪や、トップの髪を持ち上げて乾かしていく彼は、指先で乾いているか確認しているのだろう。時々髪を指先でこするような動きをする。
大部分が乾いてきたあたりで、ブラシを手に取った彼は、ドライヤーの温風を弱いものに切り替えてあてながら、髪を下に伸ばすようにブラシを動かしていく。絢瀬の艶やかな黒髪が丁寧に乾かされていく。ドライヤーで乾かされた髪の熱をとるように、ヴィンチェンツォは冷風にドライヤーの設定を切り替えると、ブラッシングしながら髪の熱をとっていく。
さらり、と丁寧に乾かされた柔らかな髪が揺れる。照明を反射して、髪が天使の輪のように輝いている。それに満足したヴィンチェンツォは、絢瀬の頭頂部に口付けを一つ落とす。
「綺麗に乾いたよ」
「本当、びっくりするぐらい綺麗に乾かされたわね。ありがとう、助かったわ」
「ふふ、また私に乾かさせてくれるかい?」
綺麗になる君を一番近くで見たいからね。
そう言ってのける彼に、タイミングがあえばね、とそっけない返事をする絢瀬。いくらでもタイミングはあわせるよ、と楽しそうに笑いながら、ヴィンチェンツォは今日の夕飯はお鍋だよ、と言う。寒かったものね、と言いながら絢瀬はルームシューズを履く。廊下に出ると、リビングで効かせている暖房の熱が届いておらず、きん、と冷える。廊下は寒いね、と話しながら二人はリビングの扉を開ける。ふわり、と柔らかい料理のかおりと一緒に、暖房の暖かな空気が流れてくる。
今日は鶏鍋だよ、といそいそとダイニングテーブルに向かうヴィンチェンツォに、あたたまりそうだわ、と絢瀬は顔を綻ばせる。
二人が向かい合って座ると、食前の挨拶をする。土鍋の蓋を開けると、くつくつと煮えたった鍋の具材が現れる。鶏肉はよく火が通っているようだし、白菜もねぎも、にんじんも鮮やかな色を見せている。豆腐に糸こんにゃくも入っていて、中々に豪勢な内容だ。具材を取り皿によそいながら、絢瀬は最近は色々な鍋の素が出ていることを話題にあげる。そうなんだよ、とヴィンチェンツォは頷く。
「今日は鶏鍋にするか、キムチ鍋にするか、凄く迷ったんだ」
「あら、それは迷っちゃうわね」
「寒かったから、鍋にしようとしか考えてなかったからね。……ああ、そういえば、売り場にはトマトとか……そうそう、チーズの鍋のもともあったね」
「チーズ? 随分洋風になりそうね。というか、チーズの鍋のもとを入れるなら、チーズフォンデュみたいにならないかしら」
「私もそう思ったんだ。でも、今日はシンプルに行こうって決めていたからね」
「鶏鍋が一番好きだわ。シンプルで、絶対においしいもの」
「そうだね。それはそうとして、今度、挑戦してみる? チーズ鍋」
「おいしくなくても、あなた、食べ切るのよ?」
「うーん、作るなら、どういう具材がいいのか調べてからにしよう!」
鶏肉を頬張りながら、ヴィンチェンツォは洋風鍋なんてあまりしないよね、と呟く。土鍋で洋風、ってイメージがつかないわね、と絢瀬も頷く。ふたりが冬に囲む鍋は、だいたいが鶏や水炊き、キムチで、時々豆乳鍋が出てくるぐらいだ。鍋のもととして売られているんだからおいしいとは思うよ、とヴィンチェンツォが熱々の鶏肉を嚥下しながら言えば、まずかったら販売しないものね、と絢瀬はにんじんを口に運びながら言う。
取り皿に山盛りの野菜を乗せながら、ヴィンチェンツォは今度は洋風鍋だね、とにこにこの笑顔でいう。正直な話、絢瀬は洋風鍋に気乗りはしなかったのだが、彼のいかつい顔のくせに人好きのする笑顔に押される形で、楽しみね、と口にしてしまうのだった。