おや、と玄関を掃除しながらヴィンチェンツォは思った。
昨日の朝までは、玄関の備え付けシューズボックスの上には、小さなサボテンとルームフレグランスしか置かれていなかったはずだ。それは昨日の夕方、ジムに行く際に確認している。ジムから帰るときは絢瀬と二人で帰ってきたが、先に部屋に上がったのは彼の方だった。たしか、その時、絢瀬は白いビニール袋を下げていたから、それを置いたのかもしれない。
もしかしたら、その際に新しい玄関の住人が増えたのかもしれない。
「かわいいけど……なんでオルサキォット……?」
小さなあみぐるみのクマは、プラスチックのつぶらな瞳をヴィンチェンツォにむけている。緑色の服を着た焦茶色のそれは、ヴィンチェンツォの手のひらに乗せると、より小さく見える。
何はともあれ、シューズボックスの上を拭き、ミニサボテンたちを元の位置に置き直す。ルームフレグランスの瓶の横に置かれたクマは、ひとりぼっちで寂しそうだ。
どうせなら、もう一体用意したいな。そう思ったヴィンチェンツォは、このあみぐるみはどこで手に入れたのか絢瀬に尋ねようと思った。
リビングに戻り、ウエットタイプのシートをゴミ箱に捨てる。絢瀬は風呂掃除をしているはずだ、とそちらに足を向けようとしたとき、ちょうどリビングの扉が開かれる。
長袖を肘まで捲り上げた絢瀬が、お風呂掃除は終わったわよ、と報告してくれる。捲り上げた袖を直している彼女に、玄関の、と尋ねると、ああ、と返ってくる。
「気がついたのね」
「そりゃあね。あんなにかわいいオルサキォット、どこで手に入れたんだい」
「駅前の雑貨屋よ。でも、あの子ひとりしかいなかったのよ」
「そうなのかい。それは残念だね」
「ふたり欲しかったのだけど、廃盤らしくて取り寄せられないって言われたわ」
「ふうん……」
それじゃあ、あの子はひとりぼっちかあ、とこぼすヴィンチェンツォに、似たような子が売っていたら買ってくるつもりだと言う絢瀬。
なんとも言えない微笑みを返した彼に、絢瀬は一つ首を傾げる。不思議に思っていると、白い子がいいなあ、とヴィンチェンツォはいつもの調子でいうものだから、白い子もいいわね、と返事をする絢瀬。
「ねえ、お腹空かない?」
「そうね……ああ、もうそんな時間だったの」
「うん。ねえ、今日のランチ、アボカドのサーモンサンドなんてどうだい。サーモンも、おいしいバゲットを昨日買ってきたんだ」
「いいわね。楽しみだわ」
楽しそうににっこり笑うヴィンチェンツォに、以前食べた彼お手製のアボカドのサーモンサンドの味を思い出す絢瀬。クリームチーズに胡椒がよく効いていて、とても食べやすかったのだ。
バゲットに切り込みを入れているヴィンチェンツォに、クリームチーズを塗ろうか、と提案する。すると、常温に戻ってからの方が塗りやすいよ、と返される。
「だから、アヤセはクリームチーズを出してくれると嬉しいな。柔らかくなったら塗ってくれるかい」
「ええ。柔らかくなったら、ね。分かったわ」
そんなやりとりを、昼下がりの沈黙したテレビは見ていた。
「なにを作っているのかしら」
「ふふ、何だと思う?」
「……マフラーかしら?」
「ははっ。違うんだ、実は」
絢瀬が風呂を出てリビングに戻ると、大きな体を丸めてヴィンチェンツォが何かをしていた。近寄ってその手元を見ると、白い毛糸と編み棒だった。どうやら編み物をしているらしい。
これはね、オルサキォット。
そう言った彼は、開きっぱなしの本を指さす。ローテーブルの上には一冊な薄い本。取り上げて表紙を見れば、初心者向けのあみぐるみの本だった。
「あみぐるみ? オルサキォットって……玄関のクマのこと?」
「そうさ。ひとりぼっちじゃ寂しいじゃないか」
「それは……そうだけど」
「廃盤なんだろう? 近いものなら、私にだって作れるんじゃないかなって思ってね」
「ああ……なるほど。それでオルサキォットを作ってたのね」
そういうこと。そう言うと、ヴィンチェンツォは丸い頭部を編み終わる。ずいぶん早いのね、と絢瀬が驚いていると、小さいからね、と返す。すでに耳もできている。
次は胴体を作らないとな。そう言った彼は、毛糸を取り上げて、うーん、と唸る。
「どうしたの?」
「いや……足りるかなって。スーパーの百円ショップさ、この色、そんなになくって……」
「ああ、そういうことね。足りるかギリギリの量だったのね」
「三個ってあったから、いけるとは思うんだけどね。とりあえず、できるところまでやってみるさ」
そう言うと、ヴィンチェンツォは編み棒を動かす。大きな手で小さな編み棒を操るその姿は、絢瀬からすれば魔法にも等しい。
器用なものね、と絢瀬が言うと、このくらいどうってことはないさ、と言う。
「わたし、不器用だもの」
「まあ、たしかにアヤセは不器用だけど、簡単なものから始めたら、案外できるかもよ?」
「そんなものかしら」
「そんなものさ。なんなら、私が手取り足取り教えるよ」
「あら、それはいいわね」
「じゃあ、これが完成したら一緒に何作るか、考えようか」
「そうね。なにが簡単か、少し調べておくわね」
クマの胴体が少しずつ出来上がっていく。白い、楕円の体はなんだか繭のように見えて、それが少しだけ絢瀬にはおかしく見えた。