休憩をとりに来たであろう職員たちの好奇の目、という居心地の悪い空気を味わっていた俺こと水瀬智紀は白衣の男性に呼ばれて休憩室を後にする。その時に聞こえた、今回の合格者かな、という声。内容としては、服部さんが言っていた、俺が受けた検査に合格したことを指しているようだった。何の検査だったのかは結局なにも明かされないまま、俺はエレベーターに乗り込む。
一つ下のフロアで降りると、そこは事務所だった。オフィスデスクが島のようにずらっと並べられていて、ところどころパーテーションで間仕切りをされた空間がある。コピー機や電話がちょこちょこ鳴っている中、キーボードを叩く音が聞こえる。
俺たちはエレベーターを降りると、そばの壁越しに移動していく。ロゴ入りの制服を着たひとがなにやら話しているのが聞こえてくる。書類の訂正を依頼していたり、電話を聞いて頭を抱えていたりする。慌ただしいんだな、と思っていると、奥まった場所にある扉を先を歩く男性がノックする。ああ、と低い声が返ってきて、失礼します、と男性が扉を開けて先に入る。俺も慌てて一礼をして扉を潜る。
事務室と同じ真っ白い部屋に、ソファーが向かい合うように二つ置かれている部屋にいたのは、ダークグレーのスーツを着て、オールバックにメガネをかけた男だった。どこかで見たことがあるような、と思っていると、白衣の彼が藤臣さん、と声をかけていた。こちらに顔が見えるように座っていた彼は、呼びかけに反応して、顔を動かす。メガネ越しに見える緑色の目は、ガラス玉の方がよほど温かみを感じる目で――そして思い出した。休憩室でレモンサイダーとオレンジジュースを混ぜているときに来た男だと。
あのとき一緒にいた青年に向けていた目と同じ、熱い冷たいの温度を感じない目をしたまま彼は、俺をじ、と見ている。虚無を具現化したらこうなるんだろうな、という目をしている男性に思わず俺はうっ、と後ろに踏み込みそうになる。
「今回の適性検査の通過をした者です」
「……ああ」
「では」
「……ああ」
白衣の男性はそれだけ言うと、俺にソファーに座るように言う。おっかなびっくり俺は男性の向かいに座ると、その後ろに白衣の男性が立つ。なんというか、居心地が悪い。
とにかく居心地が悪いのだ。藤臣、と呼ばれた男はただ黙ってこちらをじ、っと伺っていて、俺は何を口にすればいいのか分からない。藤臣氏もまた、じ、っと俺を見ている。ただ見ているのだ。観察というような不躾な視線でもないのだ。ただ、そこにあるものを視界に映している、そんな感じだ。
そんな空気がどれだけ続いただろう。きっと秒針一周分ぐらいかもしれないが――体感では一時間以上は見られていたように感じる。目を逸らすのも無礼かと思って、でも目を合わせるのも少し嫌で、俺は彼の膝頭あたりに視線を向ける。綺麗にプレスされたスラックスだな、とかそんなことを思っていると、目の前の男が口を開く。
「そうか。視線はあわせず、しかし逃げず」
「……ぇ、あ、」
「恐怖を持ちつつ、逃げる構えは見せない」
「……はぁ」
じい、と窪みにあるガラス玉が俺を見ている。ぱちり、と重そうに瞬きがされる。ああ、この人、瞬きするんだ。
低い深い声が耳に響く。生返事を思わず返してしまうぐらいには、唐突な内容だった。俺が呆けていると、大きな手が眼前に迫ってくる。手のひらも大きければ、指も長い手だ。そこいらのアイドルの顔面なら、すっぽりおさまってしまうんじゃないか、と思うほど大きな手が迫ってきていて、咄嗟に俺はのけぞってしまう。
「反応も悪くはない」
「……は、はあ」
「擬似体の討伐速度も平均値でした」
「そうか」
後ろの白衣の男性が言った擬似体とは、きっと少し前に俺が銃で滅多撃ちにしてやった存在のことだろう。平均、ということは、他にもあれを倒した人間がいる、ということだ。
不気味な存在のことを思い出して、俺はぶるり、と身震いをする。それを見た藤臣氏は、恐怖を思い出したか、と呟く。この人、会話を成立させるための発言なのか、独り言なのかの区別がしにくいな!
「え、ああー……まあ……そう、ですね」
「あれが、君が武装を所持している状況下で、君の家族を襲撃していたらどうする」
「え? えーっと……家族を逃します。そのために、俺が引きつけます」
「そうか。……恋人や、友人でもそうするのか」
「ええと……そう、ですね。そうします」
恋人はいないが、仲のいい友人は何人かいる。気のいいあいつらが怪我をしたら嫌だし、俺に武器があるなら追い払うなり、あいつらが逃げ切るまでの時間稼ぎをするだろう。そう思って返事をする。
それを聞いた目の前の男は、ぱちり、とまた重たそうに瞬きをする。レンズ越しにこちらを見る目は、相変わらず濁ったガラス玉ようで居心地が悪い。むずむずする尻を気合いで抑えていると、彼はまた口を開く。
「ふむ」
「……」
「では、関係のない第三者が巻き込まれていたら、どうする」
「え……」
「君とは無関係の、子どもや老人、それ以外の人間が襲撃されていたらどうする」
「どうって……そりゃ、助けられる範囲で助けたいです」
人を助けたい。自分が職務だったとは言え、自衛隊の人間に助けてもらったからこそ、誰かを助けたいと思っている。それは本音だし、変わらない思いだ。この手で助けられる人間なんて、たかがしれている。それでも、助けられる命があるなら、救うことが出来る命があるなら、それに手を差し伸べたい。そのために、自衛隊に入隊したのだから。
そのことを思い出して、藤臣氏を見る。じっ、と引くことなくガラス玉の目を見返してやる。こちらがいくら見返しても、暖簾を力一杯押しているような感触のなさに気持ち悪さを覚える。それでも、ずっと見る。
しばらく――どれだけ無言で押し問答していたのか。俺が彼を見ていると、彼はぱちり、と重たそうに瞬きをする。この男が瞬きをするときは、だいたい喋る前触れだったりするのを、いい加減覚えてきた。
「なるほど……自分が助けられる範囲、か。自己がどれだけ助けられるかを知ってなお、無関係の人間を助けたいか」
「はい」
「君に助けられるものは、なにもなくてもか」
「え……」
「目の前で命が散らされる。助けようとした命は、君の指が触れる直前ですり抜けていく」
「……」
淡々と、ただそこにアリが隊列を組んで歩いていることを教えるように、淡々と言葉を紡いでいく藤臣氏。
命がすり抜けて、散らされて――それでも、俺は手を差し伸べたい。命が散らされようと、救えなかったとしても、それでも。そうだっとしても、助けられなかったとしても、俺は助けたい。自己満足に過ぎなくても、前に俺に差し出された手のように、俺は誰かに手を差し伸べたい。
「それでも、俺は手を差し伸べます。とられなくても、自己満足でも」
「……そうか。自己満足だと分かっていてなお、人を救おうとする。か。それは君が愚かだからか、それとも――過去に同じように手を差し伸べられたからか」
「差し伸べて、もらったからです。だからこそ、俺はその手を他の人に繋いでいきたい」
「なるほど。差し伸べられた手があるから、自分も差し出したい。大いに結構」
一つ頷いた彼は、俺の後ろにずっと立っていた男性に視線を向ける。俺は振り返ることが出来なかったが、後ろにいた彼が息を吐いているのが分かる。
藤臣氏はぬうっ、と立ち上がると、空を握るように右手を握る。激しい閃光と音が響いて、その手を開いて俺に見せる。その手には黒い薄っぺらい箱が置かれていた。俺はそれがなんなのか分からなくて、思わず彼の顔を見てしまう。それをガラス玉の目で迎え撃つ彼は、じ、と薄っぺらく小さな箱を差し出したままだ。
俺の後ろに立っていた男性が、それを受け取るように俺に促す。促されるままに薄っぺらいそれを受け取ると、藤臣氏はなにもなかったかのように部屋を出て行く。俺がそれに呆然としていると、男性がおめでとう、と祝福してくれる。いったいなにがめでたいというのか。
「君の所属は、今を持って陸上自衛隊から異動になりました。ようこそ、警察庁公安局特殊急襲部隊に」
「……はい?」
「辞令交付は早くても明日になりますが、これから本部の案内をしますね」
「ええと、なにがなにやら……」
「ふふ、ですよね」
ですよね、ではない。なにがなんだか全く分からないうちに、俺は自衛隊から警察庁の人間になったらしい。それは困る。俺は自衛隊隊員として働く予定だったのだけれども、と続くはずの言葉は、男性の言葉に遮られる。
ここは自衛隊と同じだけ人を救える職場ですよ。そう言われてしまっては、人のために命を賭けたい俺は黙るしかなかった。