「あなたー。お茶入れましたよ」
「ん」
「ここ、置いておきますからね。まだ熱いですからね」
「ん」
「今日のお茶請けは……雄大くんおすすめのクッキーにしましたよ」
「緑茶に合わん」
「そんなこと言って。あなたが買ってきてくれたのと同じところのお店ですよ」
「……ふん」
「あらあら、わんちゃんの焼印が入っているわあ。ほらみて、可愛い」
「ん」
うげ、という顔をしながら、澪はリビングの扉を開ける。扉を開ける前から聞こえていたやりとりはいつものやりとりで、十七年間ずっと聞きすぎて、もういっそ聞き飽きたものだ。
またやってる、と思いながらも、ただいま、と冷蔵庫に向かう彼女に、母である由美子は声をかける。
「澪ちゃん、おかえり。澪ちゃんは紅茶と緑茶、どっちがいい?」
「んー……紅茶」
「はいはい。今用意しますからね。お父さんのところにクッキーあるから、それ食べて待っててね」
「クッキー?」
「雄大くんからのお裾分けよお。この間、お父さんが買ってきたタルトのお店の」
「あ、あそこの! さっすがぁ。おいしいとこ知ってるよね」
「そうねえ」
「ふん」
「でた。おとーさんの気に入らない鼻息」
「まあまあ。お姉ちゃんをとられたって拗ねてるだけよ」
澪がいるのにねー。と、そう澪は言いながらクッキーをつまむ。チョコレートがたっぷり使われたそれは、澪の好みによく合うものだが、緑茶にはちょっと合わなさそうだ。
紅茶を淹れてきた由美子は、はい、と澪の前にマグカップを置く。氷の入った紅茶はまだ湯気が立っている。父・尚人の前にある緑茶は、だいぶ湯気の量を減らしており、飲み頃だろう。
「ん」
「おいしく淹れられたかしら」
「不味くはない」
「お父さん、いつもそればっかり」
「お父さんったら、照れ屋だからねえ。昔の男の人はみんなこうよ」
「そんなもん?」
「そんなもんよ」
どこか納得できない、と言わんばかりの顔をしながら、澪はふーん、と紅茶に口をつける。あち、と言いながら一口嚥下する。
いわゆる良妻賢母を地で行くような母に、澪はつまらなくないのだろうかと常々思っている。誰かのやりたいことを優先して、自分がやりたいことを後に回しているような、そんな様子が澪は好きではなかった。
それとなく母に伝えれば、時代の違いねえ、と笑うばかりなものだから、なんとも言えないのである。
尚人の湯呑みが空になると、由美子は氷は入りますか、と尋ねながら緑茶を注いでいる。いらない、と尚人がいるが早いか注ぎ終わるのが早いか。ほとんど同時だった。緑茶の湯気はだいぶ落ち着いていた。
「お母さんってさあ、よくお父さんの言いたいこと分かるよね。いつも、ん、とかじゃん」
「最初は全然よお。ねえ、お父さん」
「ああ」
「でもねえ、長く一緒にいると、なんとなく分かるのよ」
「そんなもん?」
「そんなもんよ。ねえ、お父さん」
「しらん」
「照れちゃって、まあ」
にこにこ笑っている由美子に、澪は分からないなー、と言わんばかりに首を傾げる。今日の夕飯はハンバーグよ、と楽しげに笑う母に、チーズ乗せてよ、と澪がリクエストをすれば、とけるチーズ乗せちゃうわよ、とうきうきした由美子が冷蔵庫をあける。
開けてから、あ、と声を上げた由美子にどうしたの、と澪が不思議そうに声をかけると、ひき肉忘れちゃったわ、と困ったように由美子は眉をハの字にする。
スーパーに行こうか、と澪が提案するよりも早く、尚人は立ち上がる。その手に車の鍵が握られている。
「行くんだろ」
「え? あらあら、車出してくれるの?」
「ん」
「じゃあ、ついでにトイレットペーパーとお米も買っちゃおうかしら」
「ん」
「澪ちゃん、お留守番しててくれる?」
「いーよ」
澪は返事をする。器用にもクッキーを齧りながら、夕方の情報番組にテレビのチャンネルを合わせている。そんな娘の背中にいってくるわね、と声をかけて由美子は玄関の鍵をかけて、尚人が運転する車に乗り込むのだった。