3日目-昼02

 奥の通路から来たのは、腹の出た体型の男だった。頭髪はだいぶ後退が始まっており、額と言える場所がだいぶ見えている。よたよた、と検査衣姿で必死に走ってくる様子は、いっそ滑稽ですらあった。
 なんだありゃ、と呆れたようにベルクが呟けば、メタボリックシンドロームっていうのかしら、とミネアはつまらないものを見たような顔になる。よたよたと走ってきた男は、助けてくれ、とベルクたちに向かって声を張り上げてくる。無言でベルクとミネアは顔を見合わせると、男から目を逸らす。ベルクは空のボトルをくるくると回しながら、フラッシュを使って分子レベルに分解して、分かりやすく話を聞かない態度をとる。ミネアはイマドキの女性らしくスマートフォン――これも目が冴えるほどのビビッドな赤いカバーをつけたそれを操作している。
 よたよた、よたよたと走ってきた男は、べたん、とベルクたちの少し手前で両手を床について倒れ込む。ぜえぜえ、と荒い息をついている彼は顔中を汗まみれにして、ふくよかな体を起こしてベルクたちを見る。

「た、助けてくれ!」
「なにがだよ。ここは病院みたいなもんだぞ」
「な、なんだよ! お前もここの人間かよ! くそっ、くそくそくそっ」
「あら、なにから助けて欲しいのかしら」

 条件次第では考えてあげなくもなくってよ。
 ミネアはベルクにもたれながら、赤いルージュを引いた唇を釣り上げる。分かりやすい釣り餌に、性悪女、とベルクが小さくぼやくものだから、ミネアは高いハイヒールでベルクの革靴の爪先を踏みつける。とん、と踏まれたベルクはそれを一瞥すると、ハイヒールの下から靴を引き抜く。
 男はすがるような目で、ここから逃げ出したいんだ、と早口で捲し立てる。どうして、とにやにやと笑いながらミネアは尋ねる。俺は俺の体を取り戻したいんだ、と男は言う。

「俺は昨日、家で寝ていて、目が覚めたらここにいたんだ」
「あら、素敵な転移系フラッシュかしら」
「口から出まかせだろ」
「名前だって言える! 河原雄二だ。市立星里第一高校の二年生だ」
「……あ? お前、どう見たって中年のおっさんだろうが。ぴっちぴちの男子高校生名乗るにゃ、ちょっと無理があるだろ」
「そもそも、そんなハイスクール、聞いたことあったかしら。島の外なら、さすがに今ぱっとは出てこないわね」
「そりゃそうだよ! だって、俺、ここの世界の住人じゃないんだ! フラッシュとかいう、わけわかんないものがない世界からきてるんだよ!」

 男が涙ながらに叫ぶが、ベルクはその悲痛な訴えを、はん、と鼻で笑う。ミネアもすっかり興味をなくしたようで、手元のスマートフォンに目線を動かしている。
 冗談を言うなら、もっと笑えるものにするんだなおっさん、とベルクが吐き捨てると、本当なんだよ、と男はベルクに縋ろうとする。よたよたと泣きながら近づいてくる男に、汚ねえな、と言いながらベルクは長い足でちょいと腹を小突く。小突かれた男は、どしんと尻餅をついてしまう。ちょうど男が尻餅をついた時、通路の奥から研究員だろうか、医療関係者だろうか、作業に適した格好をした人物が何人か足早にやってくる。
 それに気がついた男がひい、と逃げ出そうとするが、それよりも早く取り押さえられる。男を取り押さえた人物は、ご迷惑をおかけしました、とだけ言って男を連れて通路の奥に消えていく。男は最後まで嫌だ、嫌だ、と叫んでいたが、その声もやがて聞こえなくなる。そんな汚い背景音を聞いていたベルクは、今度はなんの研究をしていたのやら、と呆れる。それに対して、ミネアが異能を植え付けるそうよ、と興味もなさそうに答える。

「フラッシュを人工的にか」
「ええ。どのフラッシュが開花してもいいから、とりあえず人工的に発現させるのが今の流行りだそうよ。資料で見たわ」
「ああ……そういや、この研究所もお前の出資だったな」
「ええ、先祖代々、大昔からそうだわ。……今分かっていることでは、長期的に同じストレスがかかった状態が続いている人が比較的発現しやすいもの。どのぐらいのストレスをかけて、どのぐらいの時間浴び続ければ発現するか、テスト中だって言っていたかしら」
「で、その結果、中年なのに自称男子高校生の誕生ってか」
「かわいそうね?」
「思ってもねぇことをよく言うぜ」
「あら、これでも思っているわよ、かわいそうだって」

 あれじゃあ、もうどこにも行けないわね。
 きれいな唇を歪めて、ミネアは笑う。趣味の悪い研究だことで、と吐き捨てたベルクは立ち上がる。そのまま立ち去ろうとするベルクに、見ていかないの、とミネアは尋ねる。そんな彼女に、研究室までいく権限もねえよ、とベルクは吐き捨てる。そして、趣味の悪い研究には興味もねえな、と。
 つれないひとだわ、と肩をすくめたミネアは立ち上がるとベルクとは逆方向に進む。男が連れ去られた方向に進んでいくと、大きな自動ドアが鎮座している。ミネアはスマートフォンを施錠を管理している機械にかざすと、ドアが開く。その奥に向かえば、両面大きなガラス張りの通路が見える。ガラス張りの通路からは、ちょうどガラスの向こう側で実験だろうか、椅子に縛り付けられた男の側に何人もの人間がなにやら大仰な機器を操作していたり、何かをチェックしている様子が伺える。マジックミラーなのだろうか、ミネアが見ていることに男も研究員たちも気が付かない。

「本当、いい趣味しているわよ。お爺様方って」

 先祖が発現させて以来、世代に一人はフラッシュ持ちがいないと気が済まないだなんて。
 百年前にフラッシュを発現させた男を疎ましく思いつつ、ミネアは自身の親類に呆れの感情を抱く。いつだってわりと腐り切ったその精神には呆れているのだけれども。少なくとも、自分の世代は彼女自身がフラッシュを運良く発現できたから、祖父をはじめとした一族の覚えもめでたいものであるが。
 椅子に縛り付けられた、先ほどまで逃げようとしていた男に、なんらかの機器を装着している。頭部をすっぽり隠すようなそれをちら、と見たミネアはそのまま通路を突き進む。突き当たりの扉を開け、研究室に入っていく。
 研究室に入ってきた赤い女を見るやいなや、研究員たちは彼女に一斉に頭を下げる。ミネアは右手を挙げてそれをやめさせると、主任研究員とおぼしき女研究員が彼女に近寄ってくる。

「ウィルバーホース様、ご足労おかけいたしました」
「あたくしに気遣いは結構よ。それで? 彼には今、何をしているのかしら」
「はっ。現在被験者には脳に直接強い負荷をあたえることで、フラッシュの発現をうながしております」
「そう。……ところで、先ほどまで逃げていたのと同一人物なのかしら、彼は」

 ミネアが先ほどベルクと出会った男なのかと確認をすると、主任研究員はお恥ずかしい限りです、と小さくなる。素敵な話を聞かせてくれたわよ、とふふ、と笑って彼女が言えば、突如あのようなことを言うようになったのです、と研究員は言いにくそうに告げる。

「あら、最初は違った、と」
「ええ。普通の……と言いますか、被検体として提供された一般的な男性でした。少々、ヒステリックなところはありましたが……」
「ふふ、研究の成果なのかしら。前世の記憶かなんなのかは知らないけれど」
「そう、とも言えるかもしれません。……なるほど、前世の記憶をさらによみがえらせれば、そこからフラッシュを発現させることができるかもしれない……」

 実際に、強いストレスからフラッシュは発現している……と、主任研究員はぶつくさと何事か呟いている。
 そんな彼女をよそに、ミネアは放置されていた椅子に勝手に腰を下ろす。どうやら、男にこれから施される処置が気になるらしい。彼女に飲み物を提供しようと、別の研究員が声をかけようとするが、それよりも早く自分の世界から戻ってきた主任研究員が、被検体の男性に取り付けた装置のスイッチを入れるように告げるのだった。

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