アランとユウキを研究所から逃したベルクは、ジャケットの胸元からタバコのケースを取り出す。おおむろにタバコを咥え、安いライターで火をつける。甘ったるい人工的な甘味の味が舌と肺に広がっていく。
ふぅー、と煙を吐き出してからベルクは、揺れと爆音がしたエレベーターホールに繋がる廊下をゆっくりと歩いていく。かつん、かつん、と革靴の乾いた音だけが廊下に響く。事務員達はすっかり退避したのか、あたりには人の気配は感じられない。エレベーターの上昇ボタンを軽く押してみるが、反応はない。少しだけ考えたベルクは、薄く開きかけているドアの隙間に両手を差しこみ、強引に扉を開けてみる。ががっ、と無理やりこじ開けられた扉の向こう側は、揺れでケーブルが切れて、半分地下階に落ちかけたカーゴがあるばかりだった。
「まあ、期待しちゃいなかったがな……」
「あら、なにを期待していたのかしら」
ベルクが地下階に落ちかけたカーゴから目を離して、声がした方を振り向く。そこにいたのは、爆発で壁紙が崩れ、剥がれて剥き出しとなったコンクリートの壁にふさわしくない女だった。
高い位置で結えたツインテール。足先を隠すほどに長いゴシック調のドレス。髪の付け根から、わずかに見え隠れするハイヒールの先までを、多様な赤色で染め上げた女・ミネアだった。痩せ気味で人形のように細い体つきに、意思の強さを研ぎ澄ませ、美しく配置した目鼻立ち。かつ、とヒールを鳴らして歩いてくる姿は、まるでここが荒れた研究所だったのを忘れさせてしまうほどだった。
ベルクはそんな女に対して、まだいたのかよ、と呆れたように言うばかりだったが。
「あら、存外素敵な発言だこと」
「うるせえ」
「ああ、そうだったわ。あたくし、さっきの揺れの元凶を知っていてよ?」
「あ?」
「ねえ、あなた?」
次にあなたが言わなくてはいけない言葉はわかっているだろう。言外にミネアはそうベルクに問いかける。それが分かってしまうからこそ、ベルクは咥えたタバコを深く吸い込み、深く煙を吐き出す。
「……けっ。代わりに始末しろ、ってか」
「話の早い殿方は好きよ」
「特等席で見せろ、って顔してるぜ、お嬢さんよ」
「あら、見たいじゃない。異形に成り果てたヒトの成れの果てと、あたくしたちを守ってくださる正義の番人の戦いなんて。それこそ、あたくしが今日ここに来たのは、神の思し召しだと思っているわよ」
「けっ、勝手言ってろ」
がりがりと髪をかいたベルクは、どすん、と一度大きく揺れた地面に踏ん張る。ミネアも体勢を崩すことはない。
どこにいるのか知ってるんだろうな、とミネアを睨め付けるベルクに、彼女は観覧席までエスコートしてくださるなら教えるわ、と嘯く。面倒くせえ女だな、と舌打ち一つしながらベルクは、はいはい、と適当な返事をする。エスコートは殿方の仕事だわ、と嘯きながら、ミネアはそうっとベルクの左腕にしなだれかかる。邪魔くせぇ、と邪険に振り払いつつ、上か、とミネアにベルクは尋ねる。
上には大きな研究室があるのは知っているでしょう、と返事になってない答えを返しながら、ミネアはエレベーターに向かう。まるで、屋内の階段は使い物にならないと言わんばかりだ。エレベーターホールに向かう彼女に大股で近寄り、ベルクはこじ開けたエレベーターの扉越しに見えるカーゴによじ登ろうとして――ミネアの視線を感じる。
ため息を一つ吐いて、ベルクはミネアの左腕を握るとカーゴの上に放り投げる。彼女の細い体がエレベーターのカーゴの上に乗ったのを確認してから、ベルクもカーゴの上に乗る。にこにこと笑っている彼女に、ベルクはエスコートの方法にケチつけるんじゃねえぞ、と前置きをしてから、彼女の手首を握る。そのままカーゴの屋根を蹴り飛ばして、ベルクはミネアを連れたまま壁に飛ぶ。そのまま壁を蹴り付け、逆側の壁に飛びつき、また壁を蹴り付けてエレベーターの穴を登っていく。その間もどんどん、と揺れが激しくなる。
だん、だん、と蹴り飛ばしながら上昇していき、ベルクは適当な――一番揺れが強く感じた場所のエレベーターの扉の隙間に革靴の先を捻りこむ。ミネアを左手に持ったまま、ベルクは右手を扉の隙間にかける。そのまま強引に扉を片方開けると、ミネアをエレベーターホールに放り投げる。随分手荒なエスコートだこと、と服についた埃を払い落としながら立ち上がったミネアに、レディーファーストで案内しただろうが、と嘯くベルク。一瞬、彼の体が硬直して――急激な運動に身体が硬直したのだろう――落下する直前、回復してベルクもエレベーターホールに降り立つ。それは、ミネアがアラン達と出会った七階だった。
「たしか、フラッシュ発現の研究してんのはこの階だったな」
「ご明察。七階がフラッシュ発現のフロアよ。あなたが知っているとは驚きだったわ」
「はん。普段は六階の調整室しか使ってないからな。たまたま調整室のやつらが、七階の研究の話をしていたから、覚えていたんだよ」
「素敵な記憶力だこと。じゃあ、今日ここで何があったかはご存じかしら」
「んなこと知るかよ」
「ふふ。悪夢的な実験だったわぁ。だって、」
前世の記憶を強制的に引き出して、現在の記憶や人格の混乱の招くことで、ストレス負荷をあげていたのだもの。
まるでコーヒーショップでカフェモカを頼むような口調で告げるミネアに、ベルクはそれで被験隊が暴走してれば世話ねえな、と呆れる。全くだわ、と同意しながら、ミネアはベルクに観覧席まで連れていくのがエスコートよ、と彼の腕に自身の腕を絡める。邪魔だ、と言いながらしたいようにさせているベルクは、ますます強く揺れる床をのんびりと歩く。研究室方向に向かって歩き出すと、遠くから雄叫びが聞こえてくる。到底、人の言葉とは思えない、獣じみた咆哮に、元気そうでなによりじゃねえの、とベルクは軽口を叩く。
「そんだけ吠え散らかす元気があるなら、ついでにさっさと来てもらいたいもんだがな」
「意外と丈夫にできているのよ、研究室の扉って」
「破壊するのに時間が必要だってか。一体なんのフラッシュに目覚めたのやら」
「さあ?」
「お前、現地で見ていたんじゃねえのかよ」
「興味なかったもの。自分たちが蒔いた種なのに、逃げ惑って避難行動をとるしかできない研究員たちを見ている方がよほど楽しかったわ」
「そりゃ、お前ならそうだろうな……」
ふふん、と鼻でせせら笑うミネアに、ベルクは呆れたように首を振る。
「それに、最初から相手の手の内を知っていたら、つまらないんじゃなくて?」
「ゲームならな。命がかかってんだったら、情報なんざいくらでもあったほうがいいに決まってるだろ」
「あら、あなた、死ぬかもしれないなんて思っているわけ?」
「吠えて揺らすことしかできねえやつに、到底負ける気はねえな」
「そうでしょう? ああ、でも、あなたに衝撃的な事実をプレゼントしようかしら」
「あ?」
「その被験体なのだけれど――」
ミネアが口を開いた瞬間、どがん、と一段と大きな破壊音が響く。研究室に繋がる扉が吹き飛び、ベルク達の方に飛んでくる。ベルクはそれを粉微塵に分解しながら、おー、と驚きを模した声を出す。微塵も驚いていない声色の彼に、見覚えがあるでしょう、とミネアは研究室に繋がる廊下の端にいる人物を指差す。
閉じることを忘れた口からは涎が溢れ、目から血涙を流している。頭部に残ったわずかな髪を振り乱した男の姿がそこにあった。近くには倒れた拘束するためのベルトのついた椅子と、引き伸ばされた血痕。どうやら、怪我をした職員がいたらしい。人の気配は男の姿以外になく、どうやら職員達は全員退避ができたらしい。
見開き切った血走っている目と、ふがふがと開いたり閉じたりをしている鼻に見覚えがあったベルクは、自称高校生じゃねえか、と口笛を吹く。
「随分まあ元気そうなことで」
「ええ、とても元気だわ。癇癪を起こした子どもみたいに暴れ回っちゃっているのよ」
「ひゅう。そいつは親御さんの躾が悪いんだな」
手当たり次第に投げつけられたペンやら何やらを、粒子まで分解しながらベルクは軽口を叩く。喉から血が出そうな大声をあげている男は、髪をかきむしる手を光らせる。それは確かにフラッシュ能力を使う時の特有の光だった。何のフラッシュか、とベルクが目を細めて男を見る。男は大声を上げると、物質化した言葉そのものを掴み、放り投げる。
漫画にあるよな、ああいうの。そう言いながら、ベルクは投げつけられた「あ」の文字をフラッシュ能力で分解する。消えると同時に爆音の「あ」が響き渡る。耳が悪くなりそうだぁな、と眉を顰めた彼に、全くだわ、と耳を塞いだミネアが返事をする。その間にも、男は「あ」や「お」の言葉を壁や床に投げつけている。壁や床にぶつかった文字は、爆音とともに消え去る。
「そら、あんな近くで爆音がすれば建物は揺れるし、耳も悪くなるってもんだ」
「でしょう? それで?」
「あ? なにがだ」
「どうやって彼に躾をするのかしら?」
「声帯ぶっ壊しときゃ、大人しくなるだろ」
「あら、随分と紳士的ね?」
「俺はいつだって紳士的に対応する男だよ」
そんなことを嘯きながら、ベルクは男に近寄る。焦点もあってない、どこを見ているかも定かではない目線を宙に彷徨わせている男は、ベルクが近寄ってきても気が付かない。リノリウムの床を革靴が足音高く近づいてきていても、耳が仕事を放棄しているのか、男は大声をあげてはフラッシュ能力を発動させるだけだ。形と質量を持った言葉達を避けながら、ベルクは、これが終わったら聴力検査を近く受けねぇといけねぇな、とぼやくのだった。