こんばんは、死んでください。

 その日、男は娘の誕生日だった。だから、いつもよりも足早に駅から出てきた。仕事もつつがなく終わり、駅前のケーキ屋で予約していた誕生日ケーキも受け取ったところだ。白い箱の中に鎮座するケーキを揺らさないように気をつけながら、帰路を急ぐ男の顔はどことなく嬉しそうだ。買ったケーキは、娘の最初の誕生日に相応しく、かわいらしいショートケーキだ。と言っても娘はまだ食べられないのだが。
 浮かれた早足で歩いている男は、その途中で路地裏に引き摺り込まれる。あ、と思う暇もなく引き摺り込まれた男は、そのまま手首を引いていた手が離れるとほとんど同時に、胸に軽い違和感を覚える。違和感といっても、一瞬少しだけ鋭い何かが突き刺さったような痛みが走っただけだ。胸元を見下ろしても、何かが刺さっているわけでもない。
 なんだったんだ、と思って引っ張られた袖を直して、男は路地を後にする。少し歩いて、なんだか妙に足が重たい、胸が苦しいと思った時には、自分の足にひっかかって倒れそうになる。抱えているケーキが崩れてしまう、と思っていても、思ったように体は動かない。身体がなまりのように重い、という表現があるが、それはこういうことなのかもしれない。そんなことを思っていると、にわかに周囲がざわめく声が聞こえてくる。老若男女入り交じった声たちが遠く聞こえて、だんだん視界が暗くなっていく。急激に寒さを覚えて、そして、男は早く起きなければ、と思いながら意識を失った。

 それとほとんど同時刻。青い看板が目印のコンビニエンスストアで、一人の少女が冷蔵食品が並んでいる什器からクリームパンを七個取り出して、別の什器からカップ飲料をひとつ選んでいた。青い小さいカゴの中身は、新商品のクリームパンでごった返している。ふくろ下さい、と電子マネー決済をした彼女は、駐車場の隅っこではちみつラテのカップ飲料に付属のストローを差し込んでいた。ぷすり、と軽い音を立ててストローが刺さって、彼女はちるちる、とラテを飲む。

「これ、はちみつっていうより、黒糖って感じがするぅ」

 むむ、と頬を膨らませながら、彼女は黒いツインテールを揺らすように首をかしげる。どうやら、買ったはちみつラテから、はちみつの要素を感じ取れなかったようだ。小さな作りのあどけない顔に、ふしぎ、という表情を浮かべた彼女は、そのままはちみつラテをすする。ビニール袋にはいったクリームパンたちがかさかさ、と揺れる。
 ずぞっ、とはちみつラテを啜っていた彼女は、一台の車が滑り込んでくるのを見て、一度コンビニに戻る。店内のゴミ箱に空になったラテの容器を捨てた彼女は、もう一度駐車場に出る。そのまま、先ほど駐車場に滑り込んできたシルバーの乗用車に乗り込む。何も言わずに勝手に乗り込んできた彼女に対して、乗用車の運転手は特に気にした様子もない。
 浅黒い肌に、大ぶりな金色のフープピアスをつけた彼は、大部分が白髪で、ツインテールだけが黒髪の小柄な彼女を乗せると、 滑るように車を駐車場から出していく。カーステレオからは洋楽が流れている。
 
「お待たせしてすまんかったな、弥世ちゃん」
「いいよぉ。あんね、みよ、ローソンの新作クリームパンいっぱいあったから、みんなの分も買ったんだぁ」
「専務の分も?」
「もち! けーじの分とねえ、秘書課のみんなの分!」
「そらうれしいわぁ」

 走る車の中では、弥世と呼ばれた少女が楽しそうにビニール袋の中を漁っている。鷲尾と呼ばれた男は、赤信号のタイミングでちら、とビニール袋の中を見て、息子にも買っていってやろうかな、と呟く。それを聞いた弥世は、喜ぶと思うよぉ、と間延びした声で相づちを打つ。
 そういやな、と鷲尾は先ほど通りがかった場所のことを口にする。歩道で男が急に倒れたらしい、と。

「弥世ちゃん、うまいことやったな」
「えへへ~。みよ、じょうずでしょ?」
「おう、急にぶっ倒れたって聞こえたぜ」
「んふふ~。あんね、けーじがくれたかんざしでね、ぷすって背中から刺したの~」
「そうなんか。背中から心臓を正確に一突きできるのは凄いな」
「ん~。たぶんここ! って感じで刺したよ~」

 心臓って、空気はいっちゃうとびっくりしちゃうからね~。
 間延びした、くにゃくにゃの甘えた空気たっぷりのハスキーボイスで弥世が物騒なことを言うが、鷲尾はさすがだなあ、とにこにこ顔で車を走らせている。黒いパーカーのポケットにいれっぱなしだった、凶器らしいかんざしを取り出した弥世は、あとでぴかぴかにするのー、とご満悦の表情だ。
 反対車線を走る救急車両を見ながら、鷲尾はもう出動してるな、となんでもないように口を開く。そんな彼に、弥世は今日けーじじゃないんだねえ、と口を開く。どうやら、迎えに来たのが鷲尾であることに疑問を抱いたらしい。今更かい、と笑いながら、鷲尾は専務も忙しい人だからな、と口を開く。

「今日は会社の執行責任者としてのお仕事が外せなかったんだと。悪いな、俺で」
「そっかぁ。んーん、わしおの運転もみよ、好きだよぉ」
「お。そいつは嬉しいね」
「一番運転がこわいのはねぇ、くろせだよぉ」
「黒瀬かあ。あいつはインドアだからなー」
「くろせの運転はねぇ。ぎゅんっ、ぎゅんっ、ききーっ、ってかんじ!」
「あいつ、急発進急停車はだめだってしらねえのか?」

 弥世の擬音語で伝えられる同僚・黒瀬の運転技術に呆れる鷲尾。その次に怖いのはまかべなのー、という弥世。あいつもかよ、と鷲尾は笑う。人当たりのいい同僚・真壁もおっかない運転をすると聞いた鷲尾は、専務のいないときは絶対に運転は俺がするわ、と決意にみなぎった声を出す。
 しーなの運転も上手だよぉ、と言えば、俺か椎名か谷口の三択かあ、と鷲尾は口を開く。

「しーな、最近いそがしそうー」
「おん、やっぱ金回りはどうしてもな。睨まれやすいのもあるからなぁ」
「そっかあ。じゃあ、しーなの肩もんであげよぉ」
「お、そら椎名喜ぶんじゃないか。あ、でもちゃんと専務に一言いったりぃよ」
「なんでぇ?」
「専務が嫉妬するからなあ」

 あの人、弥世ちゃんが勝手に他人に優しくするの、いい顔しないんだよ。
 そう笑って鷲尾がいうと、弥世はそんなことないよぉ、と首を傾げる。弥世が知っている専務こと敬司は、今日なにがあったか、誰と何をしたのかを報告すると、迷惑かけとらんか、と相手を心配する男だ。そう弥世が鷲尾に言えば、鷲尾はからからと笑う。弥世ちゃんにはええ顔しかしないからなあ、と笑った彼は、椎名で肩揉みの練習したって言ってから専務の肩も揉んでやりな、と提案する。

「そうする〜。しーなもけーじもいつもいそがしそ〜」
「まあ、俺らの中でも忙しいのは椎名と黒瀬だろうな」
「くろせも忙しい〜?」
「休憩時間になると、椎名も黒瀬もストレッチしてるからなあ。肩とか首とか凝り固まってるんじゃないか?」
「そっかぁ〜。じゃあ、くろせの肩ももんであげよ〜。しーなとくろせ、どっちから揉んであげたらよろこぶかなあ」
「ふたりにじゃんけんさせればいいんじゃないかねぇ。そうしたら平等だ」
「わしお、天才〜!」

 鷲尾の提案を拍手で喜ぶ弥世に、そんなに天才だったかあ、と苦笑しながら、鷲尾はビルの地下駐車場に車を滑らせる。桐嶺防衛の本社ビルの地下二階にある、社用車専用の駐車場に車で車を滑らせる。社用車専用の中でも、一部幹部社員が利用するための社用車が並んでいる区画に車を停める。
 ついたよ、と鷲尾が車のエンジンを切って車から降りる。弥世も、んしょ、と掛け声をかけながら、シートベルトを外して車から降りる。かさかさ、とビニール袋を鳴らしながら、弥世は鷲尾の後ろをちょこちょことついて歩く。

「ろくじのおやつはくりーむぱーん」
「いいねえ。それじゃあ、真壁に連絡して、お茶でも用意してもらうか」
「みよ、紅茶がいいー」
「じゃ、弥世ちゃんは紅茶って連絡しとくな」
「わーい!」

 鷲尾は携帯端末を操作する。グループチャットで弥世に紅茶を入れて欲しい旨と、彼女がクリームパンの差し入れを持ってきたことを伝える。すぐに既読がついて、紅茶とコーヒーを用意することが真壁から伝えられる。役員秘書室には、いつだって弥世の好きな紅茶が置かれているので、今日も彼女が好きな紅茶がすぐに用意されることだろう。
 ふんふんふーん、と楽しそうにひょこひょこ歩いている弥世に、鷲尾は真壁が紅茶いれてくれるって、と伝える。彼女は両手をあげて、まるで子どものように喜ぶのだった。

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