仁科は寝る前に玄関にいた。自分の外履き用の靴に防汚/防水のためのスプレーを吹きかけていたのだ。ドアを開けて換気をしながら人一倍大きな靴にスプレーを吹き、明日も無事に汚れないようにしていた。彼は二週間に一度、こうして靴にスプレーをする習慣があった。
仁科自身の靴の手入れをしてから、今度は美鶴の靴にスプレーをしようと彼は手を伸ばす。仁科の手のひらに収まってしまうような、女性にしても比較的小さい美鶴の靴を手にした彼は、ふと彼女の靴のベルトに目が行く。よくよく見れば、ベルトとパンプスの接合部分がほつれかかっていた。
無理もないことだ。美鶴のこのパンプスは、彼女が大学に入学した頃に作られたものだ。いかに手入れして使っていても、ほつれてしまうことはあるだろう。仁科はきっと明日も美鶴はこれを履くだろう、と思ってスプレーをする。両足ともにベルトがだいぶくたびれていた。ベルト部分のことは、美鶴に報告しておいた方が良いだろう。そう思いながら仁科は彼女のパンプスを玄関に置いて、扉を閉める。しっかりと施錠したことを確認して、シューズボックスにスプレーをしまう。
廊下を静かに歩いてリビングに向かえば、美鶴がゆっくりとストレッチをしていた。体側を伸ばしている彼女は、仁科が戻ってきたことに気がつくと、おかえりなさい、と体勢を戻しながら返事をする。逆側の体側も伸ばし始めた彼女に、仁科は今話しかけても問題ないか尋ねる。美鶴はきょとん、としてから、大丈夫、と頷く。
「美鶴様のパンプスのベルトが、少々ほつれていました」
「パンプス……? ああ、あの大学に入ったときの?」
「はい」
「そっか……もうあれもずいぶん長く履いているものね」
修理もたくさんしてもらったなあ。ふふ、と笑っている彼女は、ベルトも直してもらおうかな、と上体を倒しながら言う。お気に入りなのだ、と昔美鶴が言っていたのを思い出しながら、仁科はそれがいいかと、と頷く。あの靴、本当に歩きやすくて……と美鶴が上体を起こしながら言うから、仁科はそれは良いことです、と頷いた。
貴臣さんにもお気に入りの靴はあるの、と美鶴が姿勢を正しながら問いかける。私ですか、と仁科は思わずオウム返しをしてしまう。
「うん。貴臣さんのお気に入りの靴とか、服とか……あるのかなって」
「……着心地がよければ、特には」
「そっか。貴臣さんらしいな」
ふふ、と美鶴が笑う。少しさみしそうなその笑顔に、仁科はそっと視線を外してしまう。きっと彼女の求める答えはそういうことではない。そのことは分かっていた。だけれども、口から出てきたのはその言葉で、仁科は脳の中にある語彙を探しはじめる。にこにことした穏やかな笑顔の裏にかなしみをたたえさせてはいけないと、仁科は自分のお気に入り、と呼べるものを探す。
けれど、もとより二十年近く彼はミニマリストも真っ青な生活を送ってきていた仁科だ。スーツ上下、インナー上下、トレーニングウェア上下がそれぞれ洗い替え含めて三着ずつと、大盤タオルケットが二枚。彼の持ち物はそれだけだったのだ。
さてどうしたものか、と思っていると、不意に思い出す。美鶴が同棲するのだから、と季節ごとに一週間分の衣類を素材班や縫製班、デザイン班と話し合っていたのだ。昔からのお気に入りはなくとも、今の気に入っているものを言えば良いのだと。仁科は今彼の手元にある衣類を思い出す。外出用の衣類のデザインの善し悪しを仁科は理解しないが、パジャマとして彼のために用意された、くまみみ付きのふわふわパジャマは肌触りが良い。美鶴のうさみみのついたものと合わせると、彼女によく似合うと思っていた。仁科自身は、それが自分に似合うとはあまり思っていなかったけれど。
だから、仁科は口を開いた。
「……今は、」
「ん?」
仁科が重そうに口を開いたことで、美鶴は不思議そうな表情で首をかしげる。
美鶴も、仁科の極限まで私物を持たない生活を思い出していたのだろう。最低限のローテーションが組めればそれでいい、そんな私物の少なさの彼にお気に入りのものがあるのだろうか、と。あったとしても、そのほとんどは破損して新しいものと交換しているのに。それを知っているから、美鶴は不躾なことを聞いてしまったと少し反省をしていた。
だから、美鶴は仁科の口から出てきた言葉にぱちくり、と目を瞬かせた。
「今は、パジャマが気に入っています」
「パジャマ……? ふわふわの?」
「はい。美鶴様とおそろいなので」
「そっか……えへへ……うれしいな……」
「そうですか」
「うん。わたしもね、貴臣さんとおそろいだから、うれしいんだあ……」
ふわふわでもこもこしたパジャマは、美鶴がデザイン班に何度も要望して、かわいらしさの微妙な出し方にこだわっていたものだ。ただくまの耳がついただけのふわふわしたパステルブルーのパジャマではあるが、それは仁科が初めて着るパジャマなのだ。それも、美鶴と一緒に生活を送るために着るのだ。素材班の耐久性と吸水速乾、仁科の人並み外れた代謝の良さに負けず、それでいて美鶴の肌にも優しく触れられる素材。ただ丈夫なだけの生地ではだめで、それでいて美鶴のものと生地は違っても”おそろい”であること認識できる近い肌触りを生み出すために、素材部門は総力をあげて作ったパジャマ生地だ。それを美鶴が監修したデザインを気に入っているというのが、彼女にとってとても嬉しかった。
湯上がりに着たおそろいのパジャマで、美鶴はストレッチを終えた身体で仁科が座るソファーの隣に腰を下ろす。そのままぽてん、と仁科の丸太のように太い腕にもたれかかると、彼はそっと器用に片手でブランケットを美鶴にかけてくれる。
「貴臣さん、あったかいね」
「昔から代謝がいい、と言われますので、それがあるのでしょう」
「ふふ、そうかも。わたし、すぐ手が冷えちゃうから、ちょっとうらやましいな……」
「……美鶴様の手が冷えたら、私が暖めます」
「……本当?」
「はい」
「うれしい……!」
仁科にしては珍しい甘いセリフに、美鶴は彼を見上げてしまう。じっ、と美鶴が見つめても、仁科は目をそらさない。本当にそう思っているのだろう、ということが目の色で伝わってくる。仁科は、いつだって美鶴を傷つけるような発言はしなかった。
あのね、と言った美鶴は、そのまま仁科に手を差し出す。差し出された左手を、仁科はうやうやしく両手で触れる。上下から優しくはさみこまれた美鶴の小さな手は、仁科の人一倍大きな手ですっぽり覆われてしまう。優しくはさまれた手は、仁科の高い体温がうつってくるのが分かるようで、美鶴はうっとりと目を閉じる。幸せそうな美鶴の手を握りながら、仁科は右手も暖めますか、と尋ねるのだった。