ストリートピアノと連弾の話

 その番組を見たのは、本当に偶然だった。
 衛星放送に切り替えていたのも知らずにつけたテレビが、たまたま衛星放送の公共放送を流していたのだ。それはストリートピアノの番組だった。街中に設置されたピアノを弾く人たちに話を伺うというものだった。何組かもう演奏していたらしく、ナレーションとともに別の場所に移動するようだった。
 次の場所はアーケードのある商店街だった。桜通り商店街、とアーケードの入り口に書かれたその商店街は、意外と最近整備され直したのか、歩道は綺麗だったし、落書きのようなものもなかった。商店街は活気にあふれていて、遠巻きにピアノの近くに人が集まっているのが分かる。誰も演奏しようとする人はいなくて、まあそりゃそうだよな、と思う。なにせ、アーケードの真ん中に設置されているのだから、ちょっと勇気がいるだろう。
 そんな勇気ある演奏家には、小学生や大学生、社会人がいた。たどたどしいクラシックの演奏だったり、頑張って指先がもつれそうになりながらのアニメソングの演奏だったり様々だった。親子で連弾をする人もいた。彼らはそれぞれ、楽しいですけど緊張しますね、と苦笑いをしていた。そりゃあ、まあ、そうだろう。演奏のたびに周辺の商店から拍手が飛んでくるし、買い物客が見ているし、なによりテレビカメラが回っているんだから。

「うわ、でか……」

 何組かが演奏したところで、思わず私は声を上げた。そこに映っていたのは、黒いジャケットに黒いスラックスを履いた男性と、薄い黄緑色をした膝丈のワンピースに、アイボリーホワイトのカーディガンを着た小柄な――男性が大きすぎるからそう見えるだけかもしれない女性がいた。
 黒い髪を七三よりに分けた、背が高くてむきむきの男性は、少し日に焼けているのか、それとも地で色が黒いのかは分からないが、はちみつみたいな綺麗な目で周囲を伺っていた。一方でほっそりした女性の方は、男性の腕に寄り添いながら、ピアノがある、と楽しそうに声をあげていた。男性はその声に応えるように視線を彼女の方に向けると、低い声で尋ねていた。

「演奏されますか」
「ええ。貴臣さんも一緒に、どう?」
「……私も、ですか」
「ええ。わたしね、貴臣さんのピアノも好きなの」
「……私でよろしければ、ご一緒させていただきます」
「ふふ、うれしい。じゃあ、曲は――」

 ふたりは緊張している素振りも見せず、すっとピアノに向かう。買い物客や店の人達も、ピアノに向かう人が見えたのだろう。声を潜めたり、足を止めて演奏を楽しもうとしている。
 女性が静かに椅子に腰を下ろし、男性もゆっくりと椅子に腰を下ろす。大きな男性の手に寄り添うように、女性の手が並ぶ。女性がすっ、と手を動かす。高く澄んだ音が並び、それを支えるように男性の手が奏でる低い音が並ぶ。軽やかに跳ねるような高い音と、一切弾んだりしない低い音。その落差に驚いてしまう。
 なんというか――音楽には詳しくはないが、男性の手が演奏する音は、ただ正確に音を並べているように聞こえた。女性の音楽が歌うように、踊るように軽やかだから、余計に落差が目立っているのかもしれない。
 なんとも不思議な音楽だが、演奏している曲は聴いたことがある曲だった。名前は思い出せないが、聞き覚えがあって、ふと画面の隅を見れば曲名が表示されていた。そういう曲だったのか、とひとつ知識が増えたような気になって(明日には忘れていそうだが)いたが、直に曲が終わりを告げる。テレビの中では拍手喝采だった。私も思わず拍手をしていた。それだけ素晴らしい音楽だった。男性の無骨なまでに正確さを表す音楽が、女性の軽やかな音楽を支えていて、ふたりが合わさることで素晴らしい音楽になっているのが凄く良かった。
 インタビュアーが二人に声をかけにいく。演奏後、すぐに立ち上がっていた男性が、インタビュアーが声をかけるのを目線だけで制する。男性の眼力が凄い、というよりは、自然と停まらざるを得ない視線の向け方だったように思う。女性がどうかされましたか、と柔らかく声をかけて、はじめてインタビュアーが質問をする。

「久しぶりに弾いたものだから、ちょっと緊張しちゃいました。貴臣さんは緊張した?」
「はい。私も久しぶりの演奏でしたので、少々」
「でも、たまには一緒に弾くのも楽しいものね。また機会があったら、演奏しましょう?」
「美鶴様がそう仰るのでしたら。連弾相手が私でよければ」
「貴臣さんだから一緒に弾くの」

 ふふ、この人、少し照れ屋なの。かわいいでしょう。
 そう笑う女性に、インタビュアーは苦笑気味の笑顔を返す。照れ屋らしい男性を伴って、女性はピアノを後にする。軽い会釈をふたりともして、ゆったりと歩いていく。それにしても、すごい演奏だった。これ、衛星放送じゃなかったら、きっとバズってた。

 ▲▼▲

「久しぶりに貴臣さんと演奏できて、とても楽しかったなあ」
「そうですか」
「ふふ、いつぶりかな……一緒に演奏したの……」
「三年と二ヶ月ぶりです。華音様からのご依頼で演奏した覚えがあります」
「あれって、そんなに前だったの? もっと最近だと思ってた……」

 ピアノを演奏した帰り道、二人は桜通り商店街からほど近い住居に向かっていた。桜崎グランフォレストタワーは、沈みはじめてなお鮮やかな太陽に照らされている。日陰が美鶴にかかるように日傘を差している仁科が、美鶴の質問に正確な日時を返答すると、彼女は驚いたように仁科を見上げる。
 楽譜通り過ぎる音の鳴らし方をする仁科は、美鶴のピアノの教育担当からは苦笑されていた。音が正確すぎて感動できない、と。しかし、美鶴の軽やかで踊るような音と混ざると、途端にその正確な鳴らし方がしっくりくるのだから面白い、とも。
 仁科自体はピアノの演奏が得意でも不得意でもないため、美鶴が求めるならいつでもする、ぐらいのつもりである。しかし、美鶴は部屋にもピアノを用意してもらっても良かったかも、と呟いていた。その言葉に真剣な音はなく、あくまでも思いついたアイデアを口にしたぐらいだったが、万に一本気だった場合に備えて仁科は確認する。

「美鶴様。ピアノを現在の自宅に設置されますか」
「え? ううん、ピアノはなくてもいいかな。あったら好きなときに連弾ができるから、楽しいとは思うけど……」
「そうですか」
「貴臣さんはピアノ、欲しかった?」
「いえ、特には。美鶴様が必要だと判断したときは、搬入させますが」
「ふふ。大丈夫。ピアノはなくても、実家に帰れば演奏できるものね」

 美鶴の実家、神鳥家本邸にはピアノがいくつか置いてある。それぞれ調律も専任の調律師が担当しており、いつでもなめらかな演奏が可能だ。ホールやサロンのような大きな場所はもちろん、美鶴の部屋にもピアノが置かれている。
 貴臣さんと演奏するの、わたし好きなの。そう美鶴はにこにこ笑いながらマンションのエントランスをくぐる。日傘を閉じながら仁科は、そうですか、と返事をする。

「でも、今日みたいにテレビカメラの前で演奏するのはびっくりしちゃったな」
「そうですね」
「でも、ストリートピアノも楽しかったから、また道で演奏するのも悪くないかも。貴臣さんはどうだった?」
「はい。とても興味深い体験でした」
「ね、とても楽しかったな……」

 ふたりはそんな話をしながら、到着したエレベーターに乗って住まいのある二十七階に向かうのだった。

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