子どもたちの声が商店街に響く。多目的フリーラウンジ・ココトコでは、数名の小学生と思われる子どもたちが集まっていた。漏れ聞こえる内容からは、ここの計算が合わない、とか日記の天気がわからないとか、そういうものだ。どうやら、夏休みの宿題を片付けているようだ。
「ここさぁ……」
「俺はこれだと思う」
「お、まじか! 書きうつそー」
「一昨日の天気ってなんだっけ。晴れ?」
「なんか曇ってなかった? 夕方ぐらいは晴れてた気がするけど……」
「じゃあ、曇りのち晴れ、ってことにしとこ……」
夕飯の買い出しをしていた美鶴と仁科は、それを見かけて、なつかしいなあ、と呟いている。といっても、仁科は正式な教育機関に通った記録はないし、本人も記憶はない。彼の幼少期は美鶴の護衛となるために詰め込まれた訓練各種だった。しかし、正式な教育機関での受講はしていなかったが、彼は神鳥家直属の軍事・情報・実務教育機関における特別訓練を修了している。学習内容は多岐にわたり、法律、国際情勢、暗号理論、経済、安全保障、生活工学、心理学、交渉術などがあり、事実上、仁科は国家資格に匹敵する訓練履歴と理解力は持ち合わせている。
だから、仁科は子どもたちが集まって勉強を行う、というのを体験したことはないが、美鶴とともに見てきた青春ドラマやアニメ作品で把握はしている。一般的にはそういった行動をすることが多い、というのを仁科は理解しているが、実際に見たことはなかったので、少しだけ面白いものを見たと思っていた。
そんな仁科をよそに、美鶴は夏休みの宿題かあ、と呟く。彼女の夏休みの宿題で思い出深いものといえば、自由工作や自由研究だった。子どもの自由工作類によくある、父兄が手を出してしまって子どもが作ったとは思えない作品になることは、美鶴の家でもよくあった。美鶴の三人兄たちもそうだったが、美鶴の時は兄たちの力も加わったために一層派手になったのだ。当時の教職員は苦笑していた。
……閑話休題。
「夏休みの宿題、わたしはちょっとでも早く終わらせようと頑張ってたなあ」
「そうでしたね。美鶴様は配られたその日から取り組まれていました」
「うんうん。日記だけ毎日書いてたけど……ほとんどはすぐ取り組んでたっけなあ……」
「はい。就寝時刻になるまで取り組まれていた、と聞いております」
「ふふ、恥ずかしいなあ。そんなことまで覚えてるの?」
「美鶴様に関することなら、すべて記憶しておきたいと考えておりますので」
「……恥ずかしいなあ、もう」
常と変わらない無表情のまま、仁科にとんでもないことを言われた美鶴は、うっすら頬を染めてしまう。夕暮れ時だから、その顔色の変化は夕陽の色に飲まれていたのに、仁科は目ざとく気がついていた。しかし、それを指摘するのも野暮だと思って黙っていた。
美鶴はちょっとだけ荷物の入ったエコバッグを抱え直して、自宅のある方角へ足を向け直す。仁科もそれに続く。会話を切り替えるように、美鶴は今日の夕食について口を開く。キッチンでは、たしか仁科が鍋に向かっていたはずだった。それをこっそりというほどではないがのぞき見ていたから、どんな食材が出てくるかはなんとなく把握している。
「今日のお夕飯……お昼にコンソメのジュレ作っていたから……それを使うの?」
「はい。裏漉ししたトマトとコンソメのジュレを前菜にしようかと。焼き茄子を冷やし、しょうがとみょうがを添えたものと、それと夏野菜の焚き合わせも作る予定です」
「わあ……! さっぱりしてそう。メインは?」
「鶏肉を焼き、柚子胡椒を添えようかと。とうもろこしのかき揚げも予定しております」
「聞いてるだけでお腹すいてきちゃう」
「デザートは桃にしようかと。花咲屋の店主からよいものが入った、と先日勧められたものがありますので」
「素敵。今からご飯がとっても楽しみになっちゃう」
んふふ、と笑った美鶴は軽い足取りで商店街を歩いていく。仁科もそれに合わせて、少しだけ歩幅を広くする。常人の三倍は食べる仁科にとって、美鶴はその端数のような量で満足する。しかも、最近は熱い日差しと、冷房がよく効いた室内を行き来することで、身体が疲れてしまっているようだということも仁科は把握している。そのせいで、彼女はいつも小食だというのに、この夏はもう少しだけ食が細くなっていた。
本人はまだ何も食べられないほどではないから、と言っているが、仁科にとっては大事だ。もとより、仁科は彼の個人的な感情ではもう少し美鶴に食事をとってもらいたいと思っているのだ。あまりにも細くて、彼女が抱きついてくるたびに、押し返す筋肉で彼女が折れてしまうのではないかと不安なのだ。
仁科は人類の限界まで詰め込んだ高密度の筋肉構造体なので、比較するのも問題なのだが、間違いなく美鶴は華奢であるというカテゴライズされる体つきだ。身長のわりに体重が軽いので、仁科は心配をしている。
……閑話休題。
仁科は美鶴とおそろいのエコバッグ(重量や素材は全く違うが、デザインは色違いなので美鶴が喜んでいる)を肩にかけて、マンションのエントランスの扉をあける。礼とともに先に入った美鶴が、差していた日傘を閉じる。華奢なデザインの日傘をぱち、と開かないように留め具で固定する。
ふう、と一つ息を吐いた美鶴に、部屋に戻り次第飲み物を用意します、と仁科が提案する。冷えたほうじ茶が飲みたい、と言った彼女に、そうですね、と彼も頷く。仁科もかいた汗を大判のハンカチ(一見すると大判のタオルハンカチにみえるが、仁科の夏用トレーニングウェア素材で作られている。高吸水素材であり、かつ乾燥も早く、臭いもしない)でさっと首筋を拭く。
汗で濡れていた筋肉の鎧で覆われた首筋が、マットに戻ると、美鶴が貴臣さんの筋肉は今日もかわいいね、と呟く。エレベーターの扉をあけながら、仁科はそうですか、と返事をする。
「うん。汗でぬれてるのもかわいいけど、やっぱりいつもの貴臣さんの筋肉がいいなあ……」
「そうですか」
「シャツのね、こことのね、色の違いがわたし好きなの」
「……私はよく分かりませんが、美鶴様がそうおっしゃられるのなら、そうなのでしょう」
「ふふ。わたしは貴臣さんのかわいいところ、貴臣さんよりもいっぱい知ってるからね」
嬉しそうに笑う美鶴に、仁科は本当に分からない、と思う。仁科からすれば、自分の筋肉がかわいい、と笑っている美鶴の方がよほどかわいらしいと思っている。仁科は言葉を選ぶのが得意ではないから、それを伝えられないのがもどかしいと時折思う。
エレベーターの箱が上昇していく中で、美鶴は最近の仁科がかわいかったシーンを口にしていく。ふたりしか乗っていないから、誰もつっこむことはないのだけれど、誰かが聞いていたのならば、それは本当にかわいいのか、と思うようなシーンが羅列していた。着古したトレーニングウェアを着用して訓練しているときに、肩の縫い目に合わせて筋肉が露出した話だとか、仁科が成人男性の三倍量の食事を黙々と食べているときの話だったりした。
端から見ればかわいいとは言えない話でも、美鶴にとっては仁科はかわいいテディベアであるので、大きなぬいぐるみが動いていたり、食事をしているだけでかわいくてしかたがないのだ。それを知っているから、仁科は自分の服が破れるなどの失態で、恥じることや謝罪をすることはしても、否定することだけはしなかった。それは美鶴の言葉も否定することになると思ったからだ。
仁科は最近あった美鶴のかわいい、に引っかかりそうな出来事を思い出そうとする。最近は服が破れるということはあるにはあったが、これが美鶴のかわいいに入るのかが分からない。なにせ、彼女のかわいいは多岐にわたるのもあるが、仁科は自分の筋肉をかわいいと思ったことがないからだ。なので、仁科は最近あった出来事を話してみることにした。
「美鶴様がいらっしゃらないときに、夏用トレーニングウェアをより軽量化したものを試着したのですが」
「え? わたし、それ見てない……」
「はい。美鶴様が紫月様、華音様とお茶会をしておりましたので」
「あ、あの日かあ。それで、それで? 新しい服はどうだったの?」
「はい。軽量化されており、吸水性能も向上しておりました。乾燥速度も速く、夏場のトレーニングウェアとしては快適かと」
「そっかあ。よかったね……やぶれなかった?」
「はい、やぶれませんでした」
「よかったね。今度、そのトレーニングウェア見たいなあ」
「かしこまりました。次回着用時にはお声かけします」
「絶対だよ?」
指切りね、と指切りをしてから二人は二十七階に到着したエレベーターから降りる。地面からの照り返しがなくなったとはいえ、日差しは強く、まぶしい。コンクリートの屋根や壁に阻まれた太陽光は、空気を暖めて通路に夏の色をもたらしていた。