あれ、と声を上げたのは新人スタッフだった。
本邸スタッフを親に持っていたり、幼い頃に神鳥家にスカウトされた天涯孤独な子どもたちが育ってスタッフとなることが大半の神鳥家本邸スタッフだが、ごくごくまれに――本当にまれに外部からの転職組がいる。本家二男・三男の陽雅と湊雅の妻である(書類上は陽雅の妻だが)紫月も、現在こそ神鳥本邸の広報戦略室、諮問監査官であるが、元々は神鳥家の外郭団体の広報室長だった女性だ。
紫月のように、外郭団体から本当にまれに本邸に招かれるスタッフがいる。本邸特有の外部社会と隔絶した空気や、スタッフ全体の才能の高さに絶望しない心の持ちようなど、様々な分野で判断され、何十にも及ぶ本邸になじめるかどうか見極める極秘の検査や試験(選抜されているスタッフたちは、そんな検査や試験など知らないので、いつも通りの日常を過ごしている。しかし、普段の行動にこそ人間の本性が秘められているのだ)の末、突然辞令を渡されるのだ。
谷町はそんな突然辞令を渡されたスタッフの一人だった。彼のこつこつと真面目に、正確かつ確実に処理される事務作業と、ミスを減らすための一人で行える取り組みから、周囲とのコミュニケーションをとって行うダブルチェック体制。休憩時間でも業務時間でも、プライベートでも上司や部下から頼りにされている総務スタッフだった彼は、先月神鳥家の外郭組織から引き抜かれたのだ。当時の所属部署では、いなくなるのがさみしい、という声もあがった。しかし、ほとんどのスタッフは、彼が本邸に認められたことを手放しで喜んでくれた。
谷町は初めて訪れた神鳥家本邸に圧倒されつつも、馴染むまでにそれほど時間はかからなかった。本邸スタッフたちは外部から人が来ることを喜ぶ性質を持ち合わせている。普段から神鳥本邸の施設で一年を過ごしている彼ら(商業施設顔負けの設備が本邸敷地内に揃っているので、よほどのことが無い限り外部の社会に出ることが無いのだ。外部に出ることが多いのは、諜報部門のスタッフだ。彼らは一時的に外郭組織に異動し、世間の情勢調査を行うことのだ)にとって、外部社会の感性や感覚は非常に大切なものになっている。
谷町は思っていたよりも普通で、ずいぶん異質な神鳥家の雰囲気に馴染みつつあった。そんなある日、公的書類を申請するために事務仕事をしていた彼は、思わず声を上げてしまった。
「特務部の方の書類なんですが……」
「特務部? あー、仁科さんかな」
「たぶん、そうです。あの、仁科さんの名字、本家のお名前になっているんですが……」
「あーね。あってます。あの人、美鶴様に婿入りしてるので」
「あ、そうなんですね」
「みんな仁科さん、って言っているから、つい美鶴様が嫁入りしたのかと」
はは、と軽く笑った谷町に、まあずっと仁科さんって呼んでるからなあ、と先輩職員も笑う。あのひと、旧姓のままどこでも通してるから、公的書類ぐらいでしか本家にいったんだな、ってならないんだよな、と。
「まあ、実際仁科さんってずっと呼んでいたし、急に下の名前を呼ぶように言われてもなあ」
「それは……まあそうですよね」
「本人も、美鶴様の夫ではあるけど、本家の人間として扱わないで欲しい、って言っていたしな」
「そうなんですか?」
「あ、そっか。谷町さん、最近こっちに着たから、美鶴様の結婚式の様子も見てないのか」
資料室にあるから、いつでも見ていいからね、と笑った先輩に、じゃあ休みの日にでも、と谷町も釣られる。
本人が本家の人間として扱わないで欲しいなら、なおのこと旧姓で呼んじゃいますよね、と谷町が頷くと、そうなんだよね、と先輩も頷く。そんなやりとりをしているときも、ふたりの手はずっとキーボードをタイプしている。横長の画面のなかには、公的書類の申請書データが完成に近づいていく。
書類を一時保存すると、谷町はそれをプリントアウトする。ががっ、と起動音をあげるプリンターのほうに歩いて行く谷町に、先輩職員がダブルチェックしよっか、と手を上げる。彼も席をたつと、空のマグカップを持ち上げる。
「おれ、コーヒーいれるけど、谷町さんもいる?」
「あ、じゃあお願いします。フレッシュとガムシロはひとつずつで」
「おん、わかったよ」
先輩がコーヒーマシンに向かっていくのを見送りながら、プリンターが数枚の紙を吐き出す。細かな文字がプリントアウトされた用紙を取り上げて、谷町は自分の席に向かう。席に腰を下ろした彼は、ペン立てから取り出したカラーペンを握って、サンプルの記入例と実際に記入した作成した資料を見比べ始めるのだった。