この夜を、すこし特別に

 夕食を食べ終えたとき、美鶴がそういえば、と口を開く。どうかしましたか、と仁科が尋ねると、陽雅お兄さまが持たせてくれたお酒が冷蔵庫で冷やしてあって、と美鶴は教えてくれる。仁科は見覚えのない小瓶が確かに冷やされていたことを思い出す。華奢な小さなボトルだったはずだ。冷蔵庫をあけると、ドリンクを保持する場所に、ほうじ茶の入ったボトルの横に細身の瓶が入っていた。
 それを取り出した仁科が、こちらですか、と美鶴に確認をする。そうそう、と彼女は頷きながら、食器棚からほっそりしたフルート型のグラスを取り出していた。美鶴用のグラスと、仁科のためのしっかりした素材で作られたグラスをダイニングテーブルに起きながら、飲みたいなあ、と美鶴はいう。
 仁科は基本的に飲酒をしない。いつ任務が入るか不明であるのもそうだが、アルコールによる判断力の低下も飲酒をしない要因のひとつだった。そして、なにより身体能力の低下を招きかねないことがあった。飲酒による脱水のおそれのほか、筋肉回復に必要な代謝工程を一部阻害することもそうであるし、睡眠の質が低下すれば判断力も低下する。それらのことがあって、彼は禁酒をしていた。
 それ以外にもさまざまな理由があるが――一番の理由は、飲酒によって理性の箍が外れてしまって、美鶴に手を出してしまうことを恐れてのことだった。発言が無礼になることもそうだが、酔って手加減が出来なくなる、ということを恐れてのことだ。なにより、過去に外部でのパーティーで酔っ払って醜態を見せた人物を見てから、彼は美鶴の前では常に恥ずかしくない自分でありたいと決意していた。
 そのため、美鶴が仁科の分のグラスを持ち出したことに、少しだけ彼は眉をしかめてしまいそうになった。彼がアルコールの類が好きではないということを美鶴には話していないのだから、彼女が一緒に飲酒を持ちかけるのは至極当然のことだった。美鶴の好意を無下にするようで心が痛むが、飲まないと決めているからには断ろうと仁科は口を開く。

「美鶴様。たいへん申し訳ありませんが、私は飲酒を控えております」
「そうなの?」
「はい。たとえ私室にいたとしても、美鶴様が不測の事態に巻き込まれたとき、コンマ数秒の判断の遅れが命取りになるかもしれません」
「そっか……」

 しょぼん、と残念そうな顔をした美鶴に申し訳ない、と思いつつも、仁科はボトルをテーブルにおいて、用意されたグラスを片付けようとする。どうしてもだめ、と、こてんと首をかしげながら、悲しそうな顔をしながら美鶴は尋ねる。うっ、と詰まってしまった仁科に、美鶴はひとくちだけ、と仁科の腕に手を添えて口を開く。

「わたしね、貴臣さんといっしょに、ゆっくりお酒飲んでみたかったの……」
「……っ、そう、でしたか」
「ひとくちだけ……ね、本当にちょっとだけでいいの……だめ、かな……?」

 身長差からどうしたって上目遣いになる美鶴に、仁科はどうしても弱い。ましてや、彼女がしょんぼりと眉尻を下げて、ほんのりと涙目になっているのだから、彼が勝てる要素などどこにもないのだ。それでも抵抗するように、仁科はほんの少しだけ考える。――そして、ひとくちだけですが、と口を開く。
 片付けようとしていたグラスをテーブルの上に置き直した彼に、美鶴はぱあっと笑顔を浮かべる。満開の花束のような笑顔に、仁科はこれが正しいかはともかく笑顔は守られたと安心する。

「本当……! うれしい!」
「美鶴様のお望みなら、極めて安全な環境下であれば――コンマ秒の猶予くらい、あっても構わないかもしれません」
「うん、うん……! えへへ、ありがとう……!」

 ボトルあけちゃうね、と美鶴はシャンパンボトルに手を伸ばす。美鶴の手によって封を切られたボトルからは、芳醇なベリーの香りが漂う。ベリーの香りの中に、華やいだ香りを嗅ぎ取りつつ、仁科はグラスをふたつ、美鶴のほうへと近づける。彼女は小さい氷はあるか、と尋ねてきたので、ありますが、と仁科は返事をする。

「このシャンパンね、氷をちょっとだけいれて、ロックスタイルで飲むとおいしい、ってお兄さま言ってたの」
「かしこまりました」

 仁科が小さな氷をフルート型のグラスにいくつか入れたのを確認してから、美鶴はシャンパンをグラスに注ぎ入れる。とっ、とっ、と軽い音でグラスに注がれる薄ピンク色のロゼ・シャンパンは、美しい気泡を水面へとあげていく。それを見ながら仁科は、きれいですね、と感嘆の声を上げる。
 それに同意しながら、美鶴は自分のグラスを持って席に着き直す。仁科も対面に座り、グラスを受け取る。ふたりはそう、っとグラスを掲げて乾杯をする。グラスを傷めてしまうからこつんとぶつけることは決してしない。
 グラスの四分の一程度注がれたロゼ・シャンパンを口に運んだ仁科は、口の中で優しくはじける炭酸と、鼻にぬけるベリーと花のはなやかな香りを楽しむ。しっかりとしていながら上品な甘さと、嚥下する際までしっかりと炭酸はしゅわしゅわとはじけて、舌先から喉の奥まで甘やかなのに爽やかだ。
 おいしいですね、ともう一口分だけ残した仁科がそう言えば、本当にね、と美鶴も同意してくれる。

「陽雅お兄さま、センスがすごくいいから、きっとこれもおいしいんだろうな、って思っていたの。でも、想像よりずっとおいしい」
「はい、たいへんおいしいです」
「ね。甘いけどさわやかで……ベリーとなんのお花かな……? すごく華やかで、飲み切っちゃうのがもったいないぐらい」
「そうですね」
「ふふ、貴臣さんも気に入ってくれた? ね、もう一口飲む?」
「いえ、最初に頂いた分で十分です」
「んもう。貴臣さんが酔っ払ったら、どうなっちゃうのか、わたし気になるのに」

 無邪気に仁科から理性を剥がそうとする美鶴の言葉を聞きながら、彼は残ったシャンパンを口に運ぶ。甘やかな芳醇さを、舌で受け止めながら嚥下する。ぬれた氷が、空になったグラスに沿ってくるり、と回る。
 美鶴の言葉に返事をせずに、仁科は彼女の空になったグラスにシャンパンを注いでやる。しゅわわ、と淡いピンク色の中ではじける気泡は変わらず美しい。注がれたロゼ・シャンパンを見ながら、美鶴はわたしが酔っちゃいそう、と唇をとがらせる。

「美鶴様が酔っても、私がベッドまで運びます。ご安心ください」
「貴臣さんがいてくれるなら、二日酔いになっても大丈夫そう」
「はい。二日酔いに効くとされる食事をご用意いたします」
「ふふ。うれしいなあ……」

 細身で小さなボトルであったから、すぐに飲み干してしまう。それでも、きっとこのロゼ・シャンパンは相当に高価なものだっただろう。仁科は明日にでも医療部門のトップである陽雅に礼を言わなくては、と考える。妹に甘い彼のことだから、シャンパンを口にした美鶴の様子を根掘り葉掘り聞いてくることだろ。
 そう考えながら、仁科はシャンパンを口に運んでいる美鶴を見る。視線を受けた美鶴は、どうしたの、と尋ねてくる。

「いえ。明朝、陽雅様にお礼を言わなくては、と考えておりました」
「あ、わたしも一緒に行きたいな」
「かしこまりました。私がアポイントメントをとっておきます」
「ありがと。でも、今日びっくりしちゃった。お仕事してたら、いきなりお兄さまが執務室にきたの」

 瓶を右手にね、美鶴、って大きな声を出して部屋に入ってきたから、本当にわたし、びっくりしたの。
 ぷう、と小さく頬を膨らませて、当時の怒りを表現する美鶴。そんな彼女に、それほどまでに渡したかった品物だったのでしょう、と仁科がたしなめる。そうかもしれないけど、と美鶴は頬の空気を抜きながら返事をする。
 すっかり空になったボトルを見て、美鶴はこのボトルかわいいね、と口を開く。たしかにボトルの表面には細やかな凹凸が表現されており、花びらとベリー、蔓がまきついたデザインをしている。

「これ、ラベルを剥がしたら花瓶にならないかなあ」
「良い案だと思います。綺麗にラベルを剥がしましょうか」
「お願いしてもいい? わたしが剥がしたら、ぼろぼろで汚くなっちゃいそう……」
「かしこまりました。このあと処理をします」
「あ……」
「いかがしましたか」

 言いよどむ美鶴に、仁科が問いかける。このあとラベルを剥がす処理をして欲しくない理由があるのだろう、と思っての尋ね方だった。
 美鶴は、たいしたことじゃないんだけど、と口を開く。

「グラスを洗うのも、ボトルのラベルも明日にして……一緒にソファーで映画が見たいな……って」
「映画、ですか」
「うん……その、本当はお酒を飲みながら映画を見てみたかったんだけど……」

 お酒なくなっちゃったから、ともごもごと喋る彼女に、仁科はそういうことでしたら、と空になった二つのグラスとボトルをシンクに置く。それぞれに軽く水を入れてから戻ってきた仁科は、椅子に腰掛けたままの美鶴の前で膝をつく。

「どの映画をご覧になりますか」
「え……一緒に見てくれる?」
「はい。恐れ多くも、私はエンターテインメントの類いは不勉強ですが……」
「ううん、いいの。貴臣さんもみたいな、って思える映画、一緒に探してみよ」

 仁科の手を取って、美鶴は椅子から立ち上がる。華音お姉さまが気になっていた映画が配信されたって言っていたの、と楽しそうに笑う彼女に、仁科はどのような映画なのですか、と尋ねるのだった。

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