弥世(みよ)は暇を持て余していた。
肩に届くかどうかの長さのツインテールにしているサイドの髪は黒いが、それ以外の髪は綺麗に白色に脱色されている。オーバーサイズのパーカーにショートパンツ、細い足は黒いストッキングに覆われて、足元はゴツめのスニーカー。小さい顔には黒いマスクをしている。地雷系とか、そういうタイプかな、と思わせる見た目だ。
弥世は今日も完全に暇を持て余していた。普段は同棲している彼氏・九条敬司とだらだら過ごすことも多いのだが、今日はその彼氏は仕事に行っている。一人暇を持て余していた弥世は、マンションにほど近い大手コーヒースタンドチェーン店でレモネードを飲んでいた。鮮やかなネオンカラーのネイルが施された長い爪を器用に動かして、スマートフォンの画面をタップしてメッセージを送る。
見慣れないメッセージアプリで弥世はやりとりをする。その文面は絵文字やスタンプが使われていてにぎやかだ。かちかちと彼女が、暇、と打ち込んで送信しようとしていたその時、アプリに通知が入る。彼氏とのメッセージのやり取りなのだけれども、その文面は簡素だ。事務所に来い、迎えはある、とだけ書かれたメッセージを読んで、ずず、とレモネードを啜った弥世は立ち上がる。
空になったカップをゴミ箱に捨ててから、彼女は大手コーヒースタンドチェーンショップを後にする。日傘をさして、あっつ〜、とぼやきながら立っていると、白いワゴン車が彼女の前で止まる。中から出てきた男と入れ違いに日傘を閉じた弥世が入ると、男もそれにならって車に戻る。二人が車に乗り込むと、車は何もなかったように走り出した。
▼▲▼
「けーじぃ〜、きたよぉ」
「おん、来たんか」
「来いって言ったの、けーじじゃんかあ」
執務机に向かっていた脱色された灰色の髪をかき上げているサングラスの男に、臆することなく弥世は近寄る。鍛えられた筋肉で引き締まった身体に、シャツの隙間から見える和彫り。堅気には少し見えにくい男・九条敬司が着ているシャツの下には、鳳凰と龍、牡丹の華が咲き誇っていることを弥世は知っている。
近づいてきた弥世を引き寄せた敬司は、そのまま自分の膝の上に座らせる。そのまま彼女のパーカーの下に手を入れて腰を撫でるものだから、弥世はセクハラ親父じゃん、とケタケタ笑う。三十超えたらおっさんみたいなもんだがや、と敬司は名古屋訛りで返事をする。
「えー、てかけーじぃ〜、みよに何してほしいワケ〜?」
「おう、こいつや」
「んー、どれぇ」
敬司の膝の上に座ったまま、弥世は興味なさそうに彼の顎ひげを触る。顎ひげを触られながら、敬司は執務机の上に放ってあった一枚の書類を持ち上げる。彼女の腰を触っていた左手を尻に移動させながら、彼は右手で彼女に書類を渡す。
書類には若い男が写っていた。汚い金髪は整髪剤でいじっているのだろう、立ち上げられている。目はにらむような鋭さがある。男はカメラの方を向いているようだが、視線はずれている。おそらく盗撮写真なのだろう。その写真の下には名前と自宅らしい住所、アルバイト先の名前と住所が書かれていた。
「これだな。たまには運動せえ」
「えー? 運動するなら、きれーにしたいな〜」
「あかんな。まだサツが彷徨いとる」
「ちぇー」
つまんなぁい、と言いながら弥世は敬司の頬にむにむにと唇を押し付ける。九条は首を回して、押し付けられていた唇をずらさせると、自分の唇を重ねてやる。軽いリップ音をたてて離れようとする弥世の頭を、大きな右手で押さえつける。敬司は彼女の小さな口の中に肉厚な舌を突っ込む。わかっていた弥世も、それを受け入れて舌を絡ませる。
濃密な口づけを交わしていると、扉がノックされる。扉を一瞥した敬司は口づけをやめると、はいれ、と低い声で促す。失礼します、と入ってきたのは一見爽やかな好青年だった。スーツをきちっと着こなした彼は、専務に弥世の姐さん、と敬司と弥世に声を掛ける。
「タキハラの件はどうなりましたか」
「おう、今弥世に詳細読ませた」
「たにぐち〜、飾るのだめなんだってぇ。これ、どこでやればいいとかあんの〜?」
書類をひらひらさせながら弥世が聞くと、谷口は一歩進んで、執務机の端に小さなタブレットを置いた。画面には、例の男がバイトしているコンビニの録画映像が映し出されていた。店の裏口からタバコをくわえて出てくる姿が映っている。
「今、店の裏に定点を置いてます。休憩時間がだいたい午後四時と午後九時。すでに帰宅ルートも割り出しています」
「へぇ〜、しっかり観てんじゃん、えら〜い」
弥世は感心したように言いながらタブレットを覗き込む。敬司の膝の上で体を前のめりにするものだから、彼は黙って彼女の腰を支えてやる。もっとも、支えている左手はパーカーの内側に入り込んでいるのだけれども。
こほん、と気を取り直すように谷口が咳払いをする。彼は眉を少しだけしかめて口を開く。
「専務、こいつ最近ちょこちょこ関係ないはずの案件に顔出してます。どうにも向こうの若いのが勝手に動かしてるみたいで」
「えー? チョロチョロしてんのうっざぁ」
弥世の声は軽いが、その横で敬司の目つきがわずかに鋭くなる。続き、と無言で顎をしゃくって促せば、一つ頷いて谷口は口を開く。
「まだ若いんで、武器とかには手を出していませんが……そっち方面の動画を流してます。うちの看板がちらつくような加工入りで」
「……チッ」
「小物みたいなことしてんだぁ」
「で、姐さんには、今夜十九時に裏路地で接触してもらって——やんわりと警告を入れてほしいんです。あくまで事故で転びました、くらいの感じで」
「やだぁ、みよの扱い雑くなってなぁい?」
弥世はそう言いつつも、タブレットの映像を指で止めて、男の顔を拡大した。彼女はアップにした荒い画質の顔をまじまじと見ていたかと思うと、あ、と小さく声を上げる。
にんまりと笑った彼女は、新しいおもちゃを買ってもらえた子どものようだった。
んふ、と楽しそうな吐息をこぼして敬司に抱きつき直した弥世は、彼に頭を撫でられるがまま口を開く。
「みてみてけーじぃ、こいつさぁ顎、割れてない? 殴りやすそー」
「ん、ええとこ当てれば三日は喋れんくなるな。やってまえ」
弥世が敬司にだきついたままくすくす笑う。執務机を挟んで正面に立つ谷口は淡々と続ける。彼の上司が囲っている女に好き放題されているのを見るのは、この桐嶺(とうれい)防衛株式会社では日常茶飯事だった。
「なお、彼の実家は千葉。妹が一人。もし動きが読めなくなった場合、そちらにもアプローチを——」
「谷口、それはまだええ」
敬司の低い声に、谷口はすぐに了解しましたと一礼をしてからちらと時計を見る。
「十八時すぎに出れば、現場到着はちょうど良いかと」
「はぁい、じゃあそれまでにばっちり仕上げとく〜。ね、けーじぃ、どの服がいい?」
弥世がそう聞くと、敬司は面倒そうに片眉を上げながらも、目立たんやつ、とだけ返す。弥世はむぅっと頬をふくらませたが、ちゃんと立ち上がってぱたぱたと部屋を出ていった。
控え室代わりにしている部屋で、弥世はネイルの端をチェックする。問題なし。けれど、念のため利き手の人差し指だけ補強ジェルを重ねた。刺すときに折れたら嫌だからだ。ショートパンツの代わりに選んだのは、黒のプリーツスカートとパーカー。中には薄手のタートルネックのインナーを仕込む。ボディラインは出さないけど、動きやすさ重視。スニーカーの中敷きを少し硬めのタイプに差し替える。
「よし、かわいくてこわい!」
鏡に向かってウインクすると、ポーチの中のスプレー型スタンガンを確認し、小さなナイフと目薬に偽装した催涙スプレーをバッグに入れる。ファンデは控えめで、口元だけ血色感のあるティントリップ。
パーカーのフードを少し深くかぶり、最後に黒のマスクをつけて完成。
「けーじぃー、みよ、完璧じゃない?」
部屋に戻ってくると、敬司は書類を片付けて立ち上がっていた。ちらと視線を向けただけだったが、長い指が弥世のフードを直しながら、マスクの位置を整えてくれる。
んむぅ、と言いながら弥世はありがとー、とご満悦だ。
「鼻出とる。ちゃんと隠せ」
「はぁーい」
弥世がぴょこっと腕を組むと、敬司は無言のまま歩き出す。執務室を出て、エレベーターで地下に向かう。地下駐車場では谷口が車の準備をしていたが、九条は手で制してこう言った。
「現場、徒歩で行く。寄り道するわ」
「はあ、了解しました」
ああ、これは帰りにSNSで映えそうな飲み物でも買うつもりだな。そう察した谷口は車の準備をしていた手を止める。中途半端に整備してしまったから、とりあえず最後まで整備しておこう、と気を取り直して社用車に向き合うのだった。