ありふれた光景とありふれていない人の話

 正午。だいたいのホワイトカラー企業であれば、昼休憩に入る時間。それはもちろん、大手優良企業でもある桐嶺防衛株式会社でもそうだった。さまざまな部署の人々が大きくのびをして、昼休憩を告げるチャイムに合わせて行動をする。無論、さまざまな理由から休憩時間をずらす人々もいるが、大抵の人は昼休憩をとりはじめる。
 桐嶺防衛本社ビル四階にある社員食堂は、安くて量があっておいしいと社内では評判だ。身体が資本の物流や警備職はもちろん、駆け回ることの多い営業職からも高評価だ。無論、そこまで食べない人向けに量の調整もできるため、残してしまう社員は少ない。フードロス削減にも力を入れているのだ。
 スーツやオフィスカジュアルの姿の人々であふれかえっている社員食堂の一角に、敬司と弥世は座っていた。今日の日替わりランチセットであるハンバーグオムライスランチ(シーザードレッシングのサラダの小皿付き)に、デザートの杏仁豆腐を選んだ弥世と、敬司が選んだ日替わり丼ランチの親子丼には、わかめと豆腐の味噌汁と漬物の小鉢がついている。敬司が丼をもりもりと食べながら、弥世はハンバーグおいしい~とご満悦でつついている。
 やわらかく、カトラリーで割り開けば肉汁がどぷっとあふれ出るハンバーグは、社員食堂でも殿堂入りのおいしさだ。オムライスはとろとろしたものではなく、しっかり固めに焼き上げたものがチキンライスの上にふわっとかけられている。デミグラスソースという名の、中濃ソースにケチャップをまぜて煮詰めたソースがたっぷりとかかっているハンバーグオムライスランチはいつも大好評で、今日も弥世が最後のひとりだった。

「よかったぁ~。このあいだ、食べられなかったから悔しかったんだよね~」
「そうか。そんときは何にしたんや」
「ん~……たしかねぇ~……ラーメン! りんちゃんとね~、しちみかけて食べたの~」
「ほおん。うまかったか」
「おいしかった~! あんね、おばちゃんがサービスって、チャーシュー一枚多くしてくれたからね~、ちゃんとお礼言ったよ~」
「ほーけ。えらいな」
「でしょ~」

 ずず、と味噌汁を啜りながら敬司が相づちを打つ。すっかり彼の丼(大盛りにした)と味噌汁は空っぽで、たくあんをこりこりと食べていた。弥世はもっちもっちとハンバーグとオムライスを交互に口に運びながら、ぜいたくランチ~、と楽しそうだ。先週食べられなかったのが相当悔しかったのだろう。周囲は花を飛ばしながらハンバーグオムライスランチをつついている弥世を、微笑ましく眺めている社員ばかりだ。
 もちょもちょとハンバーグを食べていた弥世は、はっと思いついたようにハンバーグを一口スプーンで取り分けると、ソースをたっぷりとつけて敬司の口元に差し出す。差し出された敬司は、なんや、と言いながら弥世のソースで汚れた口周りを紙ナプキンで拭ってやる。

「ひとくちあげる~」
「ほな、もらおか」
「どーぞ!」
「……ん。うまいな」
「だよね~! オムライスもあげる~」
「ほな、もらおか」
「おいし~い?」
「ん。うちの厨房は腕がええな」

 ハンバーグとオムライスを一口ずつ敬司にあげた弥世は、うんうん~おいしいよね~、と頷きながら自分の食事に戻っていく。オムライスを優先して食べ始めた彼女に、ほんま好きなもんは最後に食うよな、と敬司は最後のたくあんを口に運びながら呟く。それに対して弥世は、だっておいしいのでしめたいもん~、とにこにこ顔だ。

 ……そんな敬司と弥世を長机ひとつ挟んだ向かいから見ている男がいた。彼は一ヶ月前に派遣社員として桐嶺防衛に入社した男・斉藤だった。斉藤は営業事務として配属されて、慣れない事務作業や電話応対に四苦八苦しながら一ヶ月を過ごしていた。
 
 ――というのは設定である。斉藤は仮の名前であるこの男は、本来の職業は警察官である。
 公安警察の人間である彼は、指定暴力団である桐嶺会のフロント企業としてマークしている桐嶺防衛に潜入しているのだ。関東一円を支配下に置き、関東に本拠地を持つ裏社会の人間がこぞって「桐嶺会が秩序を保っている」と話しているこの暴力団を摘発するための任務だった。
 公安として、一警察官として、反社会組織が秩序を保っていると言われるのがこの男――斉藤には我慢ならなかった。法律の抜け道をたくみにくぐり抜けて、警察内部でも九条側の人間が多数いたとしても、守るべきは法律が生み出す秩序である。そう彼は思っていたし、そう思っている同士たちも多くいる。
 だからこそ、彼はこの潜入任務で九条の牙城を崩せないか画策していた。一ヶ月間潜入調査をして分かったことと言えば、社員食堂が安くおいしいことと、社内ビルにあるベーカリー&スイーツ工房・甘味室とカフェテリア・Torei COFFEEは味が良いだけではなく、港区にあるにも関わらず破格の価格で売り出しているから、近隣住民や近くのオフィスビルからも人が来ること。オフィスビルのフィットネスジムと温水プールはインストラクターが常駐して指導してくれるだけではなく、最新の器具が揃っていること。そして、ジムもプールもシニア割引、近隣住民割引、社員価格とただでさえ安いのにさらに安く使えること。内科・皮膚科・歯科・メンタルケア室併設の社内クリニックは社外のひとも使えるから、やはり近隣住民も使いに来ることだった。なんなら優良企業らしく福利厚生は充実しており、変なところにまで気がきく福利厚生が多い。衣装・身嗜み支援制度にボディメンテナンス手当、居住空間カスタム支援制度(実は斉藤も、桐嶺防衛社内の先輩に言われて、これを使って実家のエアコンを新しいものにした。離れて暮らしていても、家族であれば適応できると福利厚生カウンターで言われたときは卒倒しそうだった)皮膚科や美容皮膚科の自由診療の補助も出る、ヘルス&ビューティー維持制度(ひげ脱毛をこれでした男性社員も多いらしい。斉藤もちょっとしたくなった)まであるのだ。
 正直、ここまで良いところしか見ていなくて、斉藤は自分はただの大手超絶優良企業に天下りをしたのではないか、と勘違いしそうだった。正直ちょっと揺らぎそうなところはある。あるのだけれど、自分は正義のためにいるのだ、と思いながら箸を進める。悔しいが、警察で食べる食事よりずっとおいしい。健康的な食事ができるようになってから、斉藤の肌はカミソリ負けをしなくなってきていた。

(ここは暴力団のフロント企業……! 敵地……! 気を引き締めていけ……!)

 心の中で気を引き締めながら、最後の親子丼の肉を口の中にいれると、失礼します、と向かいの席に男性が座る。敬司と弥世が見えなくなったが、斉藤の向かいに座った男も大物だった。
 桐嶺防衛株式会社秘書課室長の谷口宗一郎だった。警察の書類で見た、桐嶺会制裁部門の実質的な現場総指揮官の男だ。資料の情報が正しければ四十歳らしいが、そう見えぬほどしっかりと鍛えられた身体。敬司ほどではないが、彼に近いほどの長身。二十代前半で桐嶺会に入ったらしい彼は、早々に若頭に気に入られるほどの”処理”の腕前を持っていたらしい。現在は彼が出てきたら証拠が残らないまま全てが終わる、と言われるほどだ。
 大物が来た、と斉藤は気を引き締め直す。気を引き締めろ、と自分に言い聞かせていたときよりは、一般社員に気取られぬように、と思っていたが、とんでもない事態だ。そんなことなどつゆ知らず、谷口は自分が持ってきた食事に手をつけている。今日の麺類は味噌ラーメンだったらしい。

「仕事には慣れましたか」
「え?」
「一月ほど前に入社した方でしょう」
「え、ええ……知っていたんですか」
「ええ。我が社を支える方の顔は」

 なかなか時間を作れないので、書類で一方的に存じ上げているだけですが。
 そう話す谷口に、斉藤は顔色を悪くする。もしかしたら、斉藤がここに来るために用意した書類が偽装されたものであることも、この男は理解しているかもしれない。冷や汗で背中がじっとりと湿り気を帯びそうで、なんでもない顔をして席を立とうと思ってしまう。うまくいけば、この大物から決定的な証拠を引きずりだす機会になるかもしれない。そう分かっていても、逃げたくなるような圧力があった。
 ラーメンを箸で持ち上げ、麺をずるっ、とすすった谷口は、咀嚼し終えると視線を斉藤に向けてくる。無機質なガラスのような目で見られて、斉藤は腹に入れた親子丼を吐き戻しそうになる。表情を変えずにせり上がりそうな内容物を押しとどめている斉藤に、お気をつけて、と谷口は口を開く。

「なにが、でしょうか」
「慣れた頃がもっともミスをしやすい時期です。何事も、今が一番気を引き締めなくてはならない時期です」
「……そう、ですね」
「……おや、顔色がすぐれないようですね」
「いえ……急いで飯を食ったからかもしれないです」
「そう急がなくてもよろしいのに」

 食事は味わって楽しむものですよ。そう何でも無いように谷口は味噌ラーメンをすする。斉藤は、彼が口にした言葉が、自分の潜入捜査を見透かしているような気がして、失礼します、とだけ言って足早に社員食堂を後にした。

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