『うまく言えない』から始まり、【珈琲】の出てくる話

『うまく言えない』から始まり、【珈琲】の出てくる話(予備:魚・霧) お題ガチャ #書出ワード https://odaibako.net/gacha/171

 うまく言えない、と仁科は常々思っていた。
 美鶴がさらさらの肩甲骨まである長い黒髪をなびかせるたびに、白魚のようにほっそりとした柔らかい曲線を描く指が動くたびに、視線をつい向けてしまう自分の感情を、うまく言えないと仁科は思っていた。今だって、仁科がいれたコーヒーを気に入って飲んでいる仕草に、なんともいえないぬるま湯のような温かさを感じている。陶磁器のようにつるりと手入れの行き届いた指先。綺麗に塗られた黄緑色のジェルネイル。じろじろと不躾にならないよう、慎重に仁科は美鶴を見る。
 小さくもふっくらとした唇をとがらせて、少し熱いコーヒーをすする美鶴。白いカップと同化しそうな象牙色の肌に映えるように、今日の彼女が選んだワンピースは深い深緑の色をしている。襟と裾に施された繊細な白いレースがまぶしいほどだ。日に焼けるとすぐに赤くなり、刺激に繊細な反応を見せる彼女の肌は、いつだって柔らかな日焼け止めや、UVカット素材の衣類に守られてきていた。
 日に焼けた痕跡すらない美鶴の柔らかい肌が目にまぶしく、仁科はそっと視線を外す。手元のコーヒーを一口飲んで、肺のあたりに溜まったぬるま湯のような感情を押し流す。きっと胃のあたりまで落ちた感情が愛しさだろうと思いながら、仁科は美鶴に触れそうになる指先に力を入れる。
 美鶴から告白され、正式に婚約してから早いもので六年が経つ。婚約する前から、彼女が側にいると、仁科の指は彼女に触れそうになる。許可を得ずに触ることは、仁科にとってありえないことだ。それでも本能は、彼女を求めるように動こうとするものだから厄介なのだ。婚約する前も、してからも、仁科は美鶴に触れるときは必ず一言断りをいれてからしてきた。彼の強すぎる力で触れて、美鶴の肌に痕が残ってはいけないし、骨が折れようものなら彼は自害も辞さないつもりだった。
 今日の美鶴も可愛らしいと思いながら、仁科はコーヒーをすする。自分には分不相応な幸運と幸福だ、彼が思っていると、少し隙間をあけて隣に座っていた美鶴が、ぴったりと寄り添うように近づいてくる。仁科の筋肉で発達した足と美鶴の細く華奢な足が触れるほど近くに座り直した彼女に、思わず仁科は動きが止まる。心臓が止まりそうなほどに驚きながらも、仁科はぴくりとも動かずに美鶴がしたいままにさせる。
 身体の側面もぴったりと寄り添いながら、美鶴は八割ほど飲み干したマグカップを両手で抱えたまま仁科を見上げる。とろん、とゆるんだ赤みがかった薄紫色の大きな目が仁科を見上げてくる。仁科は美鶴のこの目が好きだった。繊細な、薄い赤紫の色はどんな宝石よりも綺麗な色だと思っていた。
 細い美鶴の体に手を回して抱きしめたら、どれだけ幸せなことだろうか。そう思いつつ、仁科はぴくりとも動かずに美鶴を見下ろす。美鶴はじ、っと仁科を見ていたかと思うと、小さな声で、あのね、と言ってくる。

「はい」
「このコーヒー……おいしかったから、もう一杯ほしいな、って……」
「そうですか。それは嬉しく思います。ですが、この時間のカフェインの摂取は、本日の睡眠に影響を与える可能性が高いです」
「そう、だよね……」

 昼の四時を回った頃に摂取するカフェインは、その後の睡眠に悪影響を与える可能性がある。カフェインの分解には最大十時間かかるのだ。美鶴の健やかな睡眠を守るためならば、多少彼女に恨まれても仕方が無いと仁科は思っている。だが、それはそうとして、美鶴が実際に悲しい顔をしていて黙っていられるわけではないのである。
 仁科は少しだけ考えてから、コーヒーサーバーに残っているコーヒーの残りを思い出す。二人で飲む分には足りないが、二人でカフェオレにするなどする分には十分な量があったはずだ。冷蔵庫にも牛乳はまだ十分残っているし、妥協案として美鶴に提案するにはちょうどいいだろう。

「美鶴様」
「ん……?」
「コーヒーをそのまま提供できませんが、カフェオレにすることで提供は可能です」
「カフェオレ……」
「はい。カフェオレ用に抽出していないので、味は劣ると思いますが、睡眠への悪影響は抑えられるかと」
「ありがとう。貴臣さん、いつもわたしのことを考えてくれていて、とてもうれしいな」
「滅相もございません」
「それじゃあ、カフェオレください」
「かしこまりました」

 美鶴の手からマグカップを受け取った仁科は、自分の分のマグカップを持ちながら立ち上がる。カップをふたつ、シンクの作業台の上に置いた彼は、そのまま冷蔵庫から牛乳のボトルを取り出す。ミルクパンにあるだけ注いだら、ちょうど空になった牛乳パックを洗う。中をゆすいでいると、ソファーから立ち上がった美鶴が近寄ってくる。
 さすがにこれから火を使うからか、美鶴は仁科に抱きついたりはしないが、不思議そうにミルクパンの中身を見ている。

「貴臣さんもカフェオレ、飲むの?」
「はい。私だけコーヒーを飲んでいては、美鶴様に失礼かと思いましたので」
「ふふ、そんなことしてたら、貴臣さんからコーヒー奪っちゃうかも」
「それを防ぐためにも、私の二杯目は美鶴様と同じカフェオレにします。私も美鶴様と同じ味が飲みたいので」
「……そんなこと言われたら、照れちゃうよ……」
「どうかしましたか。お顔が赤くなっていますが」
「ううん、なんでもないよ。貴臣さんがかっこいいな、って思っただけ」
「さようでございますか」
「そうです」

 ちょっとだけ頬を赤らめた美鶴は、それ以上の仁科の疑問には答えないと言わんばかりの雰囲気だったので、仁科は黙ってミルクパンの方へ目を向ける。ガスコンロの火をつけると、ミルクパンの中身が少しだけ揺らぎ始める。沸騰しないよう、だいたい六十度から七十度ぐらいの温度が一番牛乳が甘みを感じる温度である――そう話していたのは、長年美鶴にホットミルクを作ってきていた本家厨房の老年スタッフだ。
 仁科はかつて聞いた、最も牛乳の甘さを感じ取れる温度を監視するようにミルクパンを見つめている。ふつふつ、と軽く煮立ちかけたところで火を止めると、仁科はミルクパンで暖めていた牛乳をまず自分のマグカップに注ぐ。味と温度を確認するように、そのまま仁科は一口飲む。問題なく火傷をしない温度になっていることと、牛乳の甘さが引き立っていることを確認してから、美鶴のマグカップに牛乳を注ぎ入れる。
 そのままサーバーの中に入っていたコーヒーを仁科と美鶴の両方のマグカップに注ぎ入れ、仁科はできあがる行程を見ていた美鶴にマグカップを差し出す。

「どうぞ。いれたてですので、まだ熱いかと」
「ありがとう、貴臣さん。あったかくって、ほっとする温度だね」
「そうですね。温かさは安堵につながります」
「ふふ、貴臣さんが入れてくれたから、もっと安心できそう」
「……そうでしょうか」
「わたしはそうかな」

 美鶴が楽しそうに笑いながら、ソファーに向かうのを仁科は見送る。彼女の言った言葉を今ひとつうまく咀嚼できないまま、仁科は彼女の後ろを追いかけるようにゆっくりと足を踏み出す。それでも、うまく咀嚼できない感情を無理やり押し流すことなく受け止めて、そのうち理解できれば良い、と思うようになったのは、確実に美鶴と一緒にいるからなのだ、と仁科は理解していた。

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