桜崎グランフォレストタワー27階南東角部屋(日当たり良好)の部屋の噂

 豊かな自然と、ほどよく発展した街並みが広がる桜崎市。商業施設や文化施設が充実し、郊外に出てしまえば緑豊かな公園もある。市営のバス路線や、JRの快速通勤も停まる主要駅を抱えており、交通の便もいいため流入する市民が多い。
 そんな桜崎市の中心にある、モダンなガラス張りの駅ビルを持つ桜崎駅から歩いて十分ほどの距離に、桜崎グランフォレストタワーはある。閑静な住宅街にある、三十階建てのタワーマンションだ。そんなタワーマンションの一階にある共有エリア、ラウンジスペースで企業戦士をリタイアした紳士や夫人が楽しそうにおしゃべりをしていた。
 持ち込んだ緑茶のペットボトルを置いた田中夫人(六十二歳)はそういえば、と思い出したように口を開く。

「二十七階の角のお部屋、ずっと荷物の搬入してるわよね」
「そうそう。なんでも、特注の家具だそうよ」

 田中夫人の発言に相槌を打ったのは新島夫人(六十五歳)だ。次に住む人のためにしては、長い搬入ねえ、と新島夫人は不思議そうに首を傾げる。なぜなら、搬入作業は先月の頭から行われており、一ヶ月近く続いているのだ。
 あれは関係あるんかね、と企業経営者の西岡紳士(五十八歳)は口を開く。

「ランドリールームとゴミステーションも改装工事があっただろう」
「ありましたねえ。ゴミを入れるコンテナ、感応式になったからとっても楽ですけど」
「ランドリールームの物干し竿も支えてるところも、なんだかとっても頑丈になってませんでした? 耐荷重が二百キロって書いてありましたけど」
「やだぁ。そんなに頑丈にして何を干すのかしら」

 きゃっきゃっと笑う彼女たちは知らなかった。一着のインナーが一キロをあり、夏用スーツ上下が十キロの米袋と同じ重さの服を着る男がこの桜崎グランフォレストタワーに引っ越してくることを。
 そしてその人物は現在急いで、しかし丁寧に作業が進んでいる二十七階南東角部屋の部屋に住むということを。

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 時は巻き戻って半年前のこと。
 神鳥家の愛されて育ったご令嬢、美鶴という小柄で華奢で美しい女性(少々病弱気味)と、仁科貴臣という大柄で筋肉質で無骨な彼女お気に入りのボディーガード兼恋人の男が新居を決めた日のことだった。その建物は桜崎グランフォレストタワーという、三十階建てのタワーマンションの二十七階。南東。角部屋。
 日当たり良好で、リビングダイニングから見える大きな窓からは、自然と街並みが一望できる部屋だった。文化保護や教育、警備業務に力を入れている由緒正しい名家・神鳥家のご令嬢のためのセキュリティーも問題なく――ここに関しては、親バカ気味の両親が急遽彼女のために、マンション周辺を警備するための役職を作っていたが。
 問題はその家に住む人間だった。神鳥美鶴は百五十五センチ、四十二キロという華奢で小柄で、なにより病弱気味なのもあって、一般的な生地の服を扱うし、家具も一般的な重量でいい。体重も平均よりだいぶ軽くて、彼女一人であれば問題なく生活できる。そう、問題は一緒に住む相手だった。
 仁科貴臣。百九十一センチ、百二キロ。極限まで筋肉を詰め込んだ超高密度体型で、医療スタッフが検査したところ、筋肉密度は通常人間の二倍近く、骨格に対しても非常に密で強靭という肉体を誇る男だ。
 走力・反応速度・持久力、いずれも常人の四倍以上の数値を叩き出すだけではなく、あらゆる戦闘術(軍用格闘術・対武器制圧術・短剣術・銃剣術など)を修めており、完全に融合した独自の戦闘術を使うときた。
 そして全方位の警戒領域を常に維持しており、「背後からの音なき気配」「空気の流れの変化」すら即座に反応可能。あらゆる暗殺・誘拐・テロ・攪乱への対処法を瞬時に判断し、最適化された動きで阻止する。それだけではなく暗号解読、妨害電波、盗聴・逆探知、すべての電子攻撃・防御に対応可能なタクティカルハッキングの知識を持つ。
 そんな男を擁する神鳥家の本家、スタッフたち、そして彼を知る一部の外部関係者たちはこう彼を評する――移動式要塞、と。彼一人で一個中隊程度の戦力があると言っても差し支えないかもしれない、と。
 肉体一つで一個中隊程度の警備・諜報・防衛能力を誇る移動式要塞の男が、肉体的に普通であるはずがない。既製品の服は着用すれば一分以内に縫製が耐えきれないか、生地繊維が耐えきれずに破裂する。そもそも、既製品の服では十歳時点ですでにサイズが合わず、極端に窮屈になってしまっていた。家具に関しては元々の体重である百二キロという重さだけではなく、人類の限界を超えて発達した筋力が由来の強い圧力・衝撃により相当丁寧に扱わない限り破損してしまう。
 神鳥家は総力をあげて仁科専用の家具や車両、衣料品にOA機器、文房具類を作ってきた。それは全て、かわいい末娘の一言からだった。
 
 ――あのね、にしなくんね、おようふく、ないの。おじいちゃん、あのね、みつるね、おようふくあげたいな。

 五歳の美鶴の言葉に、祖父母も両親も、二十歳上の長兄も、十六歳上の双子の次兄と三兄はすぐに反応した。子どものお願いを叶えられなくて何が財閥か、と。有り余る富の使い道は今ではないか、と。
 彼女の一言で億単位の金が動き、研究が進む。スタッフたちは苦笑いしつつも、彼らも本家の末娘の笑顔とおねだりはかわいいもので、ひたすらに研究を重ねてきた。たった一人の、異常なまでに超高密度の筋肉量を持つ人物のために。それはたしかに採算度外視すぎて、普通の企業では考えられないことだろう。それでも愛のために突き進むのが神鳥家だった。
 そして今では食材以外全て――衣類・家具・家電・建材・医療・セキュリティ・交通インフラなどを自社内で完結する、完全自給自足制の神鳥家に各企業は尊敬・困惑・警戒・憧れ・諦めの混じった複雑な感情を抱いている。一部技術で特許が出ようものなら、技術者たちが「まねできるかばーか!」「耐久性が人間やめてる」と泣き出したという話があるほどだ。
 ……とはいえ、仁科貴臣専用の素材たちが出来上がる前に、仁科の本体スペックがどんどん高くなっていったのだが。開発班は泣いた。「人類の限界」「物理法則を壊すしかない」「布が泣いてる」「俺たち軍事兵器作ってるんじゃね」「文房具と食器が家具認定される重さ」などなど、彼の肉体が人類の限界を突破するたびに、開発班は血の涙を流し、魂を削りながら彼の身体を包む布を、握る文具を、持ち上げる食器に、触れる家具や車両を作ってきた。
 そんな仁科の脅威的な成長期が終わったのは、彼が二十になる頃だった。緩やかになってきた身長や筋肉たちに、ようやく技術が追いついたのだ。苦節十年。ついに仁科の体が動いても、飛び跳ねても、上段回し蹴りをしても、高速反復横跳びをしても、キャッチボールをしても裂けない(月に一度ほど摩耗して裂ける)耐久性や通気性など、あらゆるシチュエーションに対応できる素材類が完成したのだ。
 仁科本人の無表情の中に、まさか破れない服ができるとは思っていなかった、という表情と、本人が呟いた、動きやすいです、の言葉にスタッフは号泣した。そっと動いては破れるたびに、僅かに力を掛けて壊れるたびに、心底申し訳なさそうな顔で謝罪する彼に、物理法則が悪い、と唇を噛み締め、血の涙を流しながら開発をしてきただけあった。美鶴も嬉しそうによかったね、と言うものだから、スタッフは目が溶けるほど泣いた。その日は食堂で赤飯が出た。
 スタッフも美鶴の家族も大喜び。とはいえ、仁科の緩やかな成長は止まっておらず、プロトタイプができてからも改良に改良を重ねた十一年だ。その間に、美鶴と仁科が恋人関係になったり(家もスタッフも喜んだために、実質休日だった)ふたりが正式に婚約を結んだり(記念にぬいぐるみ四十センチサイズとアクリルスタンドが社内売店で完全受注販売された)ふたりが結婚式をあげた(身内のひっそりとしたものだが、スタッフは全員オンライン参加した。結婚式配信アーカイブが社内で共有され、ふたりの入場シーンが有志の手によってスクリーンセーバーになった。新衣装ぬいぐるみ四十センチサイズとアクリルスタンド、新商品で手のひらマスコットが社内売店で完全受注販売された)ことは最近だった。神鳥家はいつでも大賑わいだった。
 そして、美鶴二十六歳、仁科三十一歳。結婚式から半年、冬から春の訪れがはじまった日の夜のことだった。美鶴が仁科の肩にもたれながら呟いたのだ。

 ――わたしね、貴臣さんとふたりで生活してみたいな。

 んふんふ、と楽しそうに微笑みながら、美鶴はカーテンはベージュ色でね、同じベッドで寝るの。そう呟く彼女に、仁科はぱち、ぱち、と二つ瞬きをしてから、楽しそうですね、とだけ答える。重低音の囁かな同意に、美鶴はそうでしょう、と嬉しそうに頬を染める。

「それでね、おそろいのパジャマで寝るの。あ、おそろいの部屋着もほしいなぁ。ふわふわでね、もこもこしてるの」
「……そうですか」
「あとね、貴臣さんが好きなわらび餅がいつも入ってる冷蔵庫でしょ、あ、ソファーもほしいなぁ」
「検討します」
「ふふふ、それでね、商店街が近くにあってね、ふたりでお買い物するの」
「なるほど。荷物は私が持ちます」
「ふふふ、嬉しい。それでね、一緒にお料理をするの」

 わたし、お料理したことないから、たくさん失敗すると思うなぁ。
 ふわふわとした口調で、美鶴は仁科とふたりで送る生活を口に出していく。壁にかけられた絵画――その額縁を模した、美鶴の安全確認や体調異常の早期発見が目的の見守り用極小監視カメラと集音マイクは、たしかに二人のやりとりを集めていた。そう、カメラとマイクが集めた音声や映像は、オペレーション室の上層スタッフのみが閲覧可能(画像はぼかしが入っている)であり、そのスタッフたちが聞いていたのだ。
 彼らは、思わず持っていた書類や文具を取り落とし、飲みかけのコーヒーを床にぶちまけた。沈黙、空白。
 膝から崩れ落ちるスタッフもいたし、正気を失って倒れるスタッフもいた。一番最初に正気に戻ったスタッフが、音源の録音はできているかを確認した。

「ご家族に連絡を! 緊急で!」
「はい!」

 こうして美鶴と仁科の預かり知らぬところで、ふたりで生活したい美鶴と、それを支えるためのサポートチームが結成され(ほとんどのスタッフが通常業務と並行しての参加になった。なぜなら、みんな美鶴と仁科が大好きだからだ)迅速に対応を始めた。
 まずは白物家電の設計だろうか。仁科の専用衣料品は、現在専用に開発した業務用洗濯乾燥機を利用している。これを家庭用のドラム式洗濯乾燥機サイズに縮めるのだ。そして洗剤と柔軟剤。これも仁科専用衣料品のために開発されたが、おそらく美鶴は一緒に洗って干したい、と言うだろうから、彼女の衣類にダメージが入らず、かつ、仁科の専用衣料品も問題なく洗える分子配合にする必要がある。
 冷蔵庫も仁科の力に負けない特注品が必要だ。右百三十五キロ、左百三十キロの握力を持つ手は、いつだって繊細で丁寧で無音で物を扱うが、ふとした瞬間に力が入ってしまって破損するのだ。電子レンジもオーブンも必要だ。仁科は美鶴が喜ばせるために、おいしくお茶やコーヒーを淹れられるように自主的な訓練をしたし、彼女がおいしいと喜ばせるために、東西を問わずお菓子が作れる用に自主的に訓練をしてきたのだ。それは一流のシェフも真っ青なレベルの腕前を持っている。

「えっ、ふたり暮らしってあと何がいる? 床の補強? 壁も補強いる?」
「床と壁の補強と、玄関ドアとかのセキュリティ考えないといけないのでは?」
「ここのマンションの共有施設も強化がいるのでは? エレベーターとか、廊下とか。あ、エントランスも?」
「……とりあえず必要そうなものは全部リストアップしろ!」

 こうして桜崎グランフォレストタワーは、全額神鳥家持ちで全方位に大幅な補強工事が行われたのだ。

 「最近、エレベーターの“うなり音”が消えたの、地味にすごい」「ゴミステーションの箱が私より開いてる。何が入るの?」「宅配ボックス、でかいの増えてない?」「静音マットってこんなに沈まないんですね。というか沈まないの?」「駐車場のアスファルトがコンクリートになってた」という声が桜崎グランフォレストタワー住民たちから聞こえたが、まあそんなこともありますよね、とは神鳥家のスタッフ各位の発言である。
 そして明日――桜崎グランフォレストタワーに新しい入居者がやってくる。

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