クマみたいな人と、お姫様と

 仁科は搬入してくれたスタッフたちが、事前に用意してくれた食材を使って食事を作ろうか、とソファーに座る美鶴に提案した。ちょうど時刻は正午を半分ほどすぎたあたりだった。衣料品やインテリア小物、洗剤をはじめとした諸々の雑貨類を予定していた場所に配置したから、一息つける状態になったのだ。まあ、ほとんど気を利かせた搬入スタッフたちがやってくれていたのだけれども。
 ぱちくり、と目を瞬かせた美鶴は、貴臣さん料理できたの、と小首をかしげる。菓子類は作ってくれるから知っていたが、料理ができるとは聞いていなかった美鶴は、あれだけおいしいお菓子を作ってくれるのだから、作れても不思議ではないか、と考える。
 そんな彼女の考えを知らずに、仁科は、訓練しました、と頷く。そっかあ、と顔を綻ばせる美鶴だったが、実際の訓練の様子は、業務終了後に仁科が満足できるまで行われていたので、それはもう凄まじいものだった。美鶴の口に入り、彼女の心を満たす料理を作るのに妥協はできないのが彼だった。
 五歳のときに孤児院から美鶴の祖父に引き取られ、産まれたばかりの美鶴を護る男として厳しく育てられた彼は使命感が強かった。美鶴の笑顔を守るために妥協をしない。それは彼を移動式要塞と言われるまでに育て上げたのだが、その使命感からの行動はなかなかに過激で苛烈だった。
 お茶やコーヒーを美鶴好みに淹れるための練習は、サーブを担当する執事や女中もドン引きするほど、温度や蒸らし時間などにこだわりを見せた。どの茶葉で飲みたい、と言われても美鶴のおいしいという言葉と笑顔を引き出すため、仁科はあらゆる茶葉や豆を美鶴好みの味で淹れる訓練をした。茶菓子を作る練習では洋の東西を問わず、彼女が好む茶との組み合わせを考えて味付けや焼き加減、生地の混ぜ具合をひとつひとつ変えて練習してきた。もはや超一流の職人の技術を持っているのだ。SNS映えするおしゃれなデコレーションや盛り付けだって、美鶴の二倍近く太い指先でこなしてしまう。
 そんな男が、ふたりで暮らしたい、と言った日から行動を起こさない理由がなかった。美鶴を寝かしつけてから、その足で彼は厨房に向かい、朝食のための仕込みをしている社員食堂の調理スタッフたちに指導を仰いだのだ。まあ、彼らも仁科の業務外訓練活動には慣れていたので、美鶴関係なのだろうと二つ返事で引き受けていたのだが。
 もっとも、翌朝には美鶴の言葉が発端で結成された「ふたり暮らしサポートチーム(だいたい全社員構成)」の連絡網によって、神鳥家の家族に食事を提供する料理人たちまで伝わったのだが。

 そうして半年間、仁科は美鶴との新居を探したり(サポートチームがおすすめ物件としてピックアップしたものをふたりで内見した)神鳥家直属特務部・戦闘指揮官/警備顧問/戦術教育教官としての業務をこなしたり、自身のトレーニングを行う隙間時間(医療チームから頼むから睡眠時間を三時間半以下にするなと厳命された)に調理演習を行なっていたのだ。
 かつて幼かった仁科の筋肉がそうだったように、訓練を積めば積んだだけ、トレーニングをしたらした分だけ、素直にすくすく伸びていく彼の技量は、あっという間にそんじょそこいらの料理人のスキルを抜いていった。最初こそ熱心すぎる仁科に呆れていた料理人や調理スタッフ、栄養士たちだったが、だんだん楽しさの方が勝ってきたらしく、最後の一ヶ月は過剰なまでに高難易度の技術を学ばせていた。医療スタッフからは、仁科の睡眠時間を率先して削る真似はやめてくださいと注意された。
 そんな訓練をこなしてきた仁科のスキルは、超一流と言えるスキルを持っている。美鶴の好みを反映した料理も味も再現できるし、栄養士たちからみっちりびしばし仕込まれてきたので、仁科自身に必要な膨大なカロリーや栄養素もしっかりと把握済みだ。でも、彼はそんなことをひけらかしたりはしないので、美鶴の疑問には訓練しました、の一言で返事をして、彼女の座るソファーに座るのだけれども。

「んー……」
「空腹ではありませんでしたか」
「ううん、そんなことはないの。んっと、貴臣さんのごはんも食べてみたいけど……」
「みたいけど、なにかありましたか」
「……わたし、普通のお店のごはんが食べてみたいの」

 指先をあわせて、えへ、と笑う美鶴。仁科は重たそうに、ぱち、とひとつ瞬きをする。ドラマでね、喫茶店でランチするシーンとかあるの、とのんびりした声でいう美鶴は、コンビニで買い食いもしてみたいの、と恥ずかしそうに笑う。外食といえば高級料亭や高級レストランなど、いわゆるお高い格式のあるお店しか使ったことがなくて、でもドラマなどでみた知識から行ってみたいという気持ちが湧いたのだろう。
 仁科は食事にそれほど興味がなく、わりと好きな食事はあれども嫌いな食事はない。美鶴が食べたいものを優先するつもりだった仁科は、行ってみましょう、と美鶴の提案に乗る。彼が乗ってくれたことに、美鶴は嬉しそうに目を細める。すすす、と仁科の隣によってきた美鶴は、そのまま太い彼の首に腕を伸ばす。伸ばした腕を絡めて、そうっと仁科を抱きしめるようにすれば、体重をかけないように仁科は彼女の腕の中におさまる。
 刈り上げた仁科のもみあげ部分に口付けを二度落とした美鶴は、お店って予約しなくても入れるのかしら、と不思議そうに首を傾げる。彼女が家族と行っていた、そしてふたりでデートで利用していた飲食店は事前に予約が必要な店ばかりだったからさもありなんだ。
 しかし、桜崎グランフォレストタワー周辺にある、桜通り商店街のことは既に仁科の知識としてインプットされている。マンションから桜崎駅に向かう途中に位置し、のんびりした美鶴の足で歩いても七分ほどの距離にある、一キロメートルほどのアーケード型商店街だ。昔ながらの個人商店が並ぶ一方、新しいカフェや雑貨店も増えている商店街で、その商店街にあるどの店も予約なしでも入れるお店ばかりだ。

「大丈夫です。このあたりの飲食店は予約不要で入店ができます」
「そうなの? それなら安心ね」

 どんなお店があるのかしら、とふわふわした笑顔のまま仁科から離れて立ち上がる美鶴。現在経営している店舗を説明するべきか、少しだけ仁科は迷ってから、現地で確認しますか、と尋ねる。彼としては、それはおでかけデートのお誘いのつもりだった。言葉が端的すぎるが。
 しかし、そんな仁科に慣れている美鶴は、彼の方を振り向くと、にっこりと笑う。花が咲くような笑顔だ、と仁科が見ていると、彼女はおでかけデートしましょ、と仁科が伝えたかった言葉を返してくれる。ゆっくりと立ち上がった仁科の太い腕に、美鶴は自身の細い腕を絡める。

「どんなお店があると思う?」
「把握していますが、答えた方がいいでしょうか」
「内緒にしてて?」
「かしこまりました」

 仁科は見上げてくる美鶴にひとつ頷く。昔ながらの喫茶店や、美鶴が好きそうなインテリアのカフェがあることを知っている仁科だったが、彼女の要望のため何も言わずに廊下に向かう。
 音を立てずに歩く仁科と、パタパタと軽い音を立てて付いてくる美鶴。玄関で靴に履き替え、家をあとにすると、二つ隣の部屋からちょうど小学校中学年くらいの子どもが出てくる。元気な行ってきまーす、という声から、おそらく公園か友達の家にでも向かうのだろう。少年が玄関ドアを閉めて、たまたまこちらを見た。少年は、ぽかん、と口を開けた。彼の口から反射的に溢れた言葉は、でっけぇ、だった。
 少年の隣を会釈して通り過ぎる仁科と美鶴。少年はふたりをあんぐり、と口を開けたまま見送る。

「めっちゃいい匂いした……」

 お姫様の匂いじゃん、と彼はつぶやいた。

 なお、美鶴と仁科の家を出るまでのやり取りは、音声データとぼかし加工入りで全て本邸オペレーション室に配信されていた。選ばれし上位日勤スタッフ五名が、美鶴の体調変化などをモニタリングがてら、音声データたちを確認していた。
 彼らは、やりとりが尊い、という発言を残して倒れた(思い残すことはない、と言わんばかりの満足げな笑顔だった)り、社内販売されたぬいぐるみに対して泣きながら拝み出したりしていた。比較的ふたりのやりとりに慣れているベテランスタッフ(五十代)は、冷静にメディカルチームを呼んで、尊さにやられてしまった他スタッフたちを情緒安定室(ふたりのほのかな香り付き)に搬送させた。
 このあと、情緒爆発対応訓練(ver.7.3)を彼らが受けることになったのは、まあここだけの話である。

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