美鶴は仁科の顎を見ていた。
彼女が朝起きたときには、いつも丁寧に処理をしたあとなのか、ひげのひとつも見当たらない。今まで気にしたこともなかったが、たまたまつけていたバラエティー番組で、髭を伸ばしているタレントがいたのだ。
年の離れた兄たちや父親と祖父も髭を伸ばす趣味を持っておらず、美鶴には伸ばした髭は不思議な存在だった。仁科も当然髭を生やしていなかった。
だからこそ美鶴は男の人にはひげ生える、ということが不思議で、少し触ってみたかった。
それが通じたわけではないだろうが、視線を感じたからだろう、向かいに座っていた仁科がどうかしましたか、と一リットル味噌汁が入る特製容器(特殊な素材で作られたセラミックであり、重くしっかりとしている。食洗機には対応していない)を左手に持ったまま尋ねてくる。
「ううん。なんでもないの」
「左様ですか」
「んん……あのね、貴臣さんも、おひげ、生える?」
「ひげ、ですか」
「うん。ほら、お兄さまたちも、お父さまもおじいさまもおひげないでしょう? 触ったことがないから……どんな感じなのかな、って」
「そう、ですね……特にどうというものはありませんが」
「そうなの?」
「はい。生理現象として処理をしていますので。……ご興味があるのでしたら、明日、ひげの処理をする時間をずらしますが」
「え! ……いいの? 本当に?」
「はい。休日ということになっていますので、問題はありません」
「ふふ、うれしい」
目を細めてふわりと笑う美鶴。明日が楽しみだわ、と楽しそうに微笑んでいる美鶴に、仁科はそろそろお休みになられては、と促す。バラエティー番組は終わり、コマーシャルが流れているテレビを消しながら、美鶴はそうね、と頷く。
「明日は剃らないでね?」
「承知しております」
「わたし、結構楽しみにしてるのよ?」
「はい」
テレビのリモコンをガラスのローテーブルに置いて、美鶴は立ち上がる。彼女の半歩後ろを付き従うように、仁科はその背中をゆっくりと追う。寝室の扉をあけた美鶴と、ほとんど同時に腕を伸ばして仁科はリビングの照明を落とす。
人感センサーでついた寝室の間接照明(薄く柔らかなオレンジの光は、調光担当の職員たちが、美鶴がもっともリラックスできるあかりの強さを議論した末に完成したものだ)を頼りに、美鶴は大きなキングサイズのベッドに寝転がる。マットレスは仁科の体重を支えるための層と、美鶴の体を柔らかく受け止める二層構造の作りをしている。まるで無重力のような柔らかなマットレスに支えられて、美鶴はシーツの海に転がる。ふわふわの枕(美鶴のために設計開発された特注の低反発枕である。完璧な高さと柔らかさで、彼女の頭部を包み込み、上質な睡眠をサポートしている)を抱きしめて、彼女は貴臣さん、と鈴を転がしたような柔らかい声で呼ぶ。
「早く寝ましょう? 早く寝たいな……だって、明日が楽しみなの」
「そんなにひげが楽しみですか」
「ええ。はじめて触るんだもの」
にこにこと楽しそうに笑う美鶴に、仁科は不思議そうな目をしながらも、彼女のそばに横になる。山のような筋肉で覆われた体を、仰向けに横たえた彼のそばに、美鶴はいそいそと枕に頭を乗せて近寄る。仁科の巨木のように太くてずっしりとした腕に、自分のほっそりとした腕を絡めて、美鶴は目を閉じる。遠足が楽しみで仕方がない子供のように。
仁科の腕を抱き枕にして目を閉じた美鶴は、しばらくもしないうちに健康的な寝息を立てる。すやすやと眠る彼女のそばで、仁科はただ天井を見ていた。
どうにも、長らくベッドで眠ってこなかった彼の体は、安全なベッドで安心して眠る、という行動に慣れていない。ちっとも眠気などないが、かといって美鶴の腕を振り解いて、この部屋に仕事を持ち込むのも躊躇われる。結局、仁科は目覚まし用として提供されたが、アラームで起こすという仕事をさせてもらっていない目覚まし時計が、二周長針が回るまで目を閉じたまま微動だにしなかった。
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仁科はいつも通り、五時に目が覚めた。このまま起床して、洗顔と歯磨きをしたのちにひげを剃るのが彼の朝の身支度だが、今日は美鶴がひげを見たいと言っていたのを思い出す。仁科は自分の腕に添えられていた美鶴の手を、優しくシーツの海にはなす。仁科の体温が減ったからか、美鶴は少しだけ眉をしかめて小さく唸る。そんな彼女の背を、柔らかな掛け布団越しに二、三軽く撫でる。それだけで美鶴の顔は穏やかさを取り戻す。
ふにゃふにゃと口を動かしている美鶴の肩まで掛け布団を掛け直す。仁科はゆっくりとベッドのマットレスを動かさないように体重移動をして、ベッドから立ち上がる。分厚いベージュ色の遮光カーテンを少しだけ開けて、朝の日差しで自然に美鶴が目を覚ますことができるようにする。目覚まし時計はもちろんアラームを止めてある。
仁科専用に設計開発された電動歯ブラシ(仁科は非常に力が強く、通常の歯ブラシでは歯垢を落とすついでに歯茎や歯を傷つけてしまいかねないため、彼の力に耐えられる電動歯ブラシが作られたのだ。ちなみに持ち手は通常の電動歯ブラシの三倍近く太い)に、歯磨き粉をつけてスイッチを入れる。便利なことに、この電動歯ブラシは仁科が力を入れすぎると、勝手に動作がストップする仕様である。
歯を磨き終え、マウスウォッシュまで済ませてから、彼は洗顔をする。そのまま、いつもの流れでシェービングクリームに手を伸ばして、その手を止める。一度手にしたシェービングクリームを戻してから、彼は顔をタオルで軽く拭く。水分をとったタオルを洗濯機に入れてから、仁科は自分用のほうじ茶を入れるために湯を沸かす。
やかんを火にかけている間に、茶葉を用意する。沸騰した湯を急須と湯呑みに入れて、それぞれを温める。急須と湯呑みのお湯を捨て、沸騰したばかりの湯を、急須に勢いよく入れる。茶葉にお湯があたるように注ぎ入れ、蓋をせずに少し蒸らす。ほうじ茶独特の香りが急須から立ち上る。
自分用の湯呑み(仁科専用に設計された、分厚く重たいものだ。七百ミリリットル入る)にほうじ茶を注いだ仁科は、それとは別に美鶴のための紅茶を用意する。夜間に残っていた湯でポットとカップをあたため、残った湯を捨て、もう一度水を汲む。やかんをもう一度コンロにおき、火にかける。沸騰するまでの間に、業務用かと見間違えるほど大きな冷蔵庫をあける。卵を四つ、ブロッコリーとパプリカ、刻んであるネギが入った容器と豆腐を取り出す。
沸騰した湯をポットに入れ替えて、カップの湯を捨てる。ポットに湯を注ぎ、すぐに蓋をして蒸らし始める。その間に仁科は慣れた手つきで卵をボウルに割って入れる。かたかた、と四つ割り入れた卵を菜箸でかき混ぜているうちに、体内時計で正確に時間がわかった仁科は一度ボウルを作業台に置いて、ポットからカップに紅茶を注ぐ。
ちょうどそのとき、美鶴が半分寝ぼけている状態で美鶴が寝室から出てくる。歯を磨いてくるね、と洗面台に向かった美鶴を見送り、仁科は紅茶のカップと、自分のほうじ茶の湯呑みをダイニングテーブルに持っていく。そうしてから、大きい鍋に出汁パックを入れて水をはり、フライパンをあたため、バターを少し溶かす。バターが溶け出す頃に卵を滑り込ませる。じゅわ、とかおる卵とバターの香りに眉ひとつ動かさず、仁科は菜箸を動かす。半熟のスクランブルエッグができる頃には、鍋の水はぼこぼこと沸きそうになっていたため、出汁パックを取り出して事前に刻んでおいたネギをいれて、乾燥わかめをいれる。豆腐を手でちぎっていれて終えて、手を洗っていると顔も洗ってきた美鶴が戻ってくる。
ふんふん、と香りを嗅いだ美鶴は、お味噌汁作ってるの、と仁科に尋ねる。はい、と頷いた彼に近寄ってきた美鶴は、自分の頭よりうんと高い位置にある仁科の顎を見上げる。そこには少しだけ黒いひげが生えている。見慣れないそれを触りたいが、調理中の仁科の手を止めさせるわけにはいかなくて、美鶴は紅茶ありがとう、とだけ言ってキッチンを後にする。
仁科は自分用の朝食として、牛の赤身ステーキ(二百グラム)と茹でたブロッコリーとパプリカ、夜中のうちに設定しておいた玄米(二百グラム)にスクランブルエッグ(卵四つ使用している)とわかめと豆腐とネギの味噌汁(仁科の分だけ一リットル)ができあがる。美鶴の分は同じ味噌汁(小ぶりなお椀に一杯)とスクランブルエッグ(バターたっぷり)と玄米(百グラム)と、仁科用に茹でたブロッコリーとパプリカを少しわけたものだ。
トレイにそれぞれ食事を乗せて配膳し終えた仁科に、ありがとう、と美鶴は微笑んで箸を取る。ずず、と味噌汁を啜りながら、美鶴は仁科の顎を見る。やはり見慣れない黒い点々としたそれに、食事に集中しなくては、と思いつつも手が止まってしまう。んぐ、と豆腐とネギを嚥下した彼女は、一口サイズに切ったステーキを咀嚼している仁科を見つめる。その視線に気がついた仁科は、箸を箸置きに置いて、いかがしましたか、と美鶴を見る。
「あのね……ごめんね、ご飯食べてるのに……やっぱり、触ってみたいな……って」
「構いませんが」
「本当?」
「はい。どうぞ、お好きにお触りください」
「うれしい、ありがとう」
美鶴が触りやすいように、少し上体を彼女の方に向ける仁科。近づいてきた彼の顔に、そっと美鶴はほっそりした腕を伸ばす。右手で彼の顎を触れば、たしかにつるりとした感覚はなく、ざらついた感覚がある。美鶴の指先を刺激する仁科の顎先に、彼女は楽しくなってしまって、さわさわと顎先からもみあげの近くまで指を移動させる。指を移動させる方向によって、指先に加わる刺激が少し違うのが面白い。
目をキラキラさせたまま、美鶴はさわさわと仁科の顎のラインをしばらく触る。仁科も無表情のままされるがままである。
五分ほど触ったあたりで満足したらしく、美鶴はありがとう、と礼を言って仁科の顎から手を離す。少しばかり冷めてしまったスクランブルエッグを口に運びながら、美鶴はたまにはひげのある貴臣さんもいいな、とぽつりと呟く。そのつぶやきを拾った仁科は、ご希望があれば剃らない日を設けますが、と提案するのだった。