今日は不意打ちキスをしてみたくて

 美鶴と仁科は交代で風呂に入る。ふたりで一緒に入るには、まだ少しばかり美鶴の勇気が足りなかった。
 服の上からでも分かる、筋肉の隆線。なだらかな山のように、険しさを持つ谷のような美しい盛り上がりたちをかわいい、と表現する美鶴だが、それは服の上だから言えるのだ。小さいときの、仁科にむける気持ちが恋だと認識する前の自身は、どうして破れたトレーニングウェアを持った上半身裸の仁科(下半身は下半身で、これまた体のラインがよく見えるぴっちりしたウェアだった)を見ても平然としていられたのだろうか。今でも美鶴の中で大きな謎のひとつだ。

「ふんふんふん……」
 
 仁科が浴槽でリラックスしている間、美鶴はスキンケア部門が開発した、美鶴のためだけのスキンケア用品を顔や身体に塗る。乾燥しやすく、敏感な彼女の肌に優しく、そして季節ごとの肌感覚に合わせて調整される特注品のそれしか美鶴は使ったことがない。鼻歌を歌いながら、美鶴は伸びのいいローションやミルクを顔や体に塗っていく。
 ラベンダーのほんのりとした香りに癒やされながら、ボディミルクを塗り終える。すぐに肌に馴染むそれに満足しながら、美鶴はもこもこふわふわのパジャマに着替える。うさみみのフードがついたそれは、仁科とみみのデザイン違いで欲しいな、と呟いた翌々日にはできていたものだ。ちなみに仁科はクマのみみがついているし、美鶴のパジャマの上にはうさぎの尻尾がついている。
 パジャマのふわふわのみみを触りながら、美鶴はお風呂から出てくる仁科に、たまには自分からキスしてみようと考える。いつも美鶴からキスをしていいか尋ねて、彼が大きな体を屈めてしているのだ。しかし、たまにはソファーでリラックスしている仁科に、不意打ちでキスをしてもいいのではないか、と考えたのだ。
 実のところ、いつだって機械のような無表情か、ちょっと穏やかな無表情を貫いている仁科の表情を変えたいだけだった。驚かせたいと思ったからには、すぐに行動したいと思ったのが美鶴だった。いっそのこと、風呂場まで突撃してもいいのではないか、と思ったりもしたが、身長差がありすぎて彼の顔にキスができないので、その案はすぐに否決された。
 内心すこし浮かれながら、美鶴はミネラルウォーターのボトルを用意する。自分用にグラスに入れたものと、仁科用のボトルだ。風呂上がりの水分補給の準備を美鶴がしておくと、仁科は少しだけ頬の無表情が緩むのだ。それに、美鶴自身、ちょっとした手伝いをすると新婚気分が味わえるので好きだった。

「ただいま戻りました」

 風呂上がりとは思えないほど、湯気のない体で戻ってきた仁科は、濡れた髪をもうドライヤーで乾かしたらしい。彼の湯上がりの姿は、肌は冷水でも浴びたように冷たいのだ。
 おかえりなさい、と言いながら、美鶴は仁科に五百ミリリットルのペットボトルを手渡す。渡されたボトルを受け取り、仁科は丁寧にキャップを外す。力が強すぎる彼は、慎重にならないとペットボトル程度破壊してしまうのだ。
 ソファーに腰を下ろした彼は、喉を鳴らして水を飲んでいく。喉仏が上下するのを見つめていた美鶴は、手にしていたグラスをローテーブル(強化ガラスの天板と強化合金でできたそれは、耐荷重三百キロだ)に置く。そっと仁科との間の隙間を潰すように座り直した美鶴は、ペットボトルを半分ほど飲み切った彼の太ももをまたぐように座る。
 丸太よりも太くずっしりとした重さと安定感のある太ももに、ほっそりとした美鶴の足のコントラストは鮮明だ。仁科は彼女の背にそっと手を回して、どうかしましたか、と口を開こうとした。口を開いて、声帯を振るわせるよりも先に、美鶴は行動していた。
 目を閉じて、触れるだけの軽いキスを、ちゅっ、と体を伸ばして仁科の唇の端に落とす。唇に直接するには、少しだけ勇気が足りなかった。そういえば、いつだってキスをしてもいいか、美鶴から尋ねはするが、実際に触れてくれるのは仁科のほうだった。美鶴の気持ちを汲んだように、軽くて触れるだけの優しいキスを落としてくれるのだ。
 それでも不意打ちでキスをしたことに満足した美鶴が、そっと彼から離れようとした、その時だった。軽く触れるだけだった仁科の手が、力強く彼女の背に触れたかと思うと、美鶴の小さな頭を仁科の手が触れる。あれ、と美鶴が思って目をあけたときには、彼女の視界には少し日に焼けた肌が広がっていた。
 カサついた唇が触れたかと思うと、ぬるり、と分厚い唇が割って入ってくる。美鶴が驚いて動けないでいるのをいいことに、仁科の分厚くて長い舌は、生き物のように美鶴の小さな口の中を蹂躙する。縮こまっている美鶴の舌に、仁科の舌が絡みついてくる。じゅっ、と吸いついてくる舌の動きに反応できないままの美鶴は、そもそも呼吸もうまくできなくて、大きな目のふちに生理的な涙が浮かび始めている。
 美鶴が力の抜けた手で、仁科の寝巻きを軽く引っ張る。それがきっかけのように、仁科は舌を抜いて唇を食むのをやめる。離れていく口付けに一握りのさみしさと、こんなこと聞いていないという羞恥が美鶴の顔を埋めていく。ぺたん、と力の抜けた美鶴の体は、仁科の太く逞しい体にしなだれかかる。はあっ、と熱のこもった息を整えながら、美鶴は仁科の顔を見る。仁科の顔はいつもの無表情で――その中に少しだけ申し訳なさと、満足感を滲ませていた。

「失礼しました。美鶴様がかわいらしかったので、つい」
「びっくりした……」
「申し訳ありません。驚かせてしまいました」
「ううん……びっくりしたけど……その、気持ちよかったから……」

 またしてほしいな、ともごもご小さな声で言う美鶴に、仁科はわずかに目を見開く。一瞬だけ目を見開いた彼は、すぐに普段の無表情に戻ると、美鶴の柔らかい髪を軽く耳に引っ掛けると、小さくも形のいい耳に吹き込むように囁く。

「少しずつ、慣れていきましょう。ゆっくり、慣れるまで何回でもしますので」
「ひゃ……! う、うん……ゆっくり、うん……」

 顔を茹でだこよりも真っ赤にした美鶴は、あげた顔のまま、視線が右往左往する。どこを見ていいか悩んでいるウブな彼女に、仁科はそっと彼女の体を持ち上げて、ソファーに座らせる。ふかふかで美鶴の体ぐらいでは沈み込んだりしないソファーに降ろされた美鶴は、どきどきの鼓動が落ち着かないまま仁科を見上げる。
 美鶴をソファーに座らせた彼は、すっくと立ち上がるとそのままリビングを後にしようと歩き出す。もう寝るんじゃないのか、と思った美鶴は、ばくばくの動悸を沈めるよりも先に、仁科にどうかしたのと尋ねる。

「シャワーを浴びてきます」
「あれ……? さっきお風呂はいった、よね……?」
「冷却ルーチンが再度必要になりましたので」
「冷却……?」

 不思議なワードに美鶴が首を傾げている間に、仁科はリビングを後にする。ぽかん、と一人取り残された美鶴だったが、このまま二人きりだったら心臓が破裂していたかもしれないからちょうどよかったかも、と考えを改める。グラスに残ったままだった水に口をつけて、水が唇に触れたとき、思わずグラスを離してしまう。なんというか、このまま水を飲んだら、口の中をいっぱいに入ってきた仁科の舌の感覚が洗い流されてしまいそうで――美鶴は先ほどのキスを思い出す。
 自分がしようと思っていた軽いキスで、まさかこんな濃厚な、大人のキスが返ってくるとは思っていなかった彼女は、思い出しただけで顔をりんごよりも赤く染める。唇に触れた、カサついた皮膚はいつもの通りなのに、それ以外が何も知らないものだったことを思い返してしまって、美鶴は落ち着き始めていた鼓動を早くさせる。

「今日、寝られるかな……」

 小さく水を口に運んだ彼女は、水なんかで押し流されないキスの濃厚さに、くらくらしそうだった。仁科はまだ、シャワーから戻ってこなかった。

 ……余談だが、これらもインテリア小物に内蔵された、美鶴の見守り用超小型の集音器とカメラで神鳥本邸に配信されていた。映像は強めのぼかしが入っていたが、それでも二人が口付けをしているのも、美鶴が真っ赤になっているのも分かってしまった。

「……あの、いつもより長くないですか」
「てか、美鶴様、めっちゃ顔赤くないですか」
「えっ!? って、ことはもしかして……ディープなキス……ってコト!?」
「えっ!? ……えっ!?」

 混乱しているオペレーション室の夜勤スタッフたちを他所に、超小型で実によく音声を拾ってくれる集音器からは声がよく聞こえる。慣れるまで何回でも、という仁科の声と、恥ずかしそうな美鶴の声。それを聞いたスタッフたちは、満場一致だった。これは初めてのディープなキスだ、と。
 スタッフの一人は、仁科は幼少期から教育らしい教育といえば、諜報や軍事・警備関係の教育しか受けておらず、そのほかの訓練は肉体の限界まで育てる内容だったことを思い出して、いつあんなキスを覚えたんですか、と狼狽えている。別のスタッフは愛が筋肉と観察眼を鍛えて巧みなキスを覚えた説を提唱しはじめて、論文を書き始めていた。もう一人のスタッフは、心臓のあるあたりを握りしめて、膝から崩れ落ちていた。彼女は鼻から鮮血が垂れ流していた。
 死屍累々のスタッフたちだったが、鼻血を流しているスタッフは、鼻に詰め物をして、汚した床を拭きながら呟く。

「てか、冷却ルーチンってなんですか」
「あれ? しらなかった? 仁科さん、毎日定期的に冷水シャワー浴びてるんだよ」
「冷水シャワー」
「物理的に頭を冷やしてるんだよ……あのひと……」

 理性の耐久性をあれで戻してるんじゃないかな、と言ったスタッフに、他のスタッフたちは、さすが、としか言葉が出なかった。ちなみに、警備部門のスタッフたちに、仁科の冷却ルーチンについて尋ねると、トレーニングルーチンも美鶴との接触が増えた日は多くなっていると答えが返ってくるのだが――まあ、今は知らなくてもいいことである。

  • URLをコピーしました!