後に公式記録として保管されることになった昔話

 仁科貴臣の最初の記憶は、五歳の誕生日を迎えた四月の終わりからはじまる。狭くはないが、決して広くはない、手入れはされているが築年数が経過した古ぼけた孤児院が最初の記憶だ。
 検診のたびに、仁科は生まれつき骨格が大きく、筋量も多いと言われてきた。身体能力も体温も代謝も高く、医師たちからは「この子、将来すごくなるかも」と苦笑されるほどだった。それでもまだ、平均的な五歳児男児の平均くらいの大きさだった。
 四月生まれの子どもたちの合同お誕生日会が終わって一週間ほどした日のことを、仁科は忘れることがないだろうと思っている。その日は初老の男と、壮年の男性が訪れた日だった。ふたりの男が待つ部屋に連れてこられた仁科は、連れてきてくれた初老の女性スタッフが少し困惑した顔だったことも覚えている。
 男たちはソファーに座ったまま、表情のない、無言の仁科少年を見て、なにか話していた。いいんじゃないか、と初老の男性が頷いて、仁科はふたりの前にあるソファーに座るように促される。

「君はからだを動かすことは好きかい」
「はい」
「ふむ。この歳の子どもにしては無駄のない返事だ」
「では、この孤児院を出て、我々についてきてほしい、と言われたらどうする」
「……」

 初老の男に尋ねられ、仁科少年は後ろに立つ女性スタッフを見上げる。仁科としては、孤児院に愛着はあるが、なにがなんでもここにいたいというほどではなかった。自分が自立をすれば、その分の費用が浮くのではないか、と考えるくらいには大人びた思考をしていた。
 女性スタッフはおだやかな皺のはいった顔をゆるめて、仁科がしたいように決めなさい、と優しく告げる。その言葉を聞いて、彼はついていきます、と男たちに返事をする。その光景を見ていたふたりの男は、かか、と豪胆に笑う。

「この歳にして随分と大人びている。ふむ、気に入った。小僧、お前に大事な――重大な任務をくれてやろう」
「任務」
「ああ。荷物をまとめてついてきなさい」

 初老の男に促され、女性スタッフとともに荷物をまとめに向かう。女性スタッフは、突然でごめんなさいね、と謝ってくれて、仁科はこれがこことの別れだと察する。窓の向こうから聞こえる中庭で、同じくらいの歳の子どもたちが、何も知らない楽しそうな声で遊んでいる。
 仁科がボール遊びや鬼ごっこ、かくれんぼなどをすると彼が一番になってしまうから、いつしか子どもたちはあまり彼を誘わなくなった。それを悲しいと思うこともなく、仁科は部屋にある絵本をひとり読んで過ごしてきた。だから、ここと別れても寂しくはないし、悲しくもない。よくしてくれたスタッフたちにお礼を言えないのは、少しだけ残念だが。
 わずかな着替えだけをちいさなリュックサックに詰めた仁科は、男たちが待つエントランスに向かう。手の空いていたスタッフたちがせめてもの、と挨拶に来てくれる。彼らに深々とお辞儀をして、仁科は男たちについていく。
 今まで見たことがないほど、磨き上げられた黒い車に案内され、座ったことがないほど、からだが沈み込みそうなふかふかの座面に腰を下ろす。スモークが貼られた窓は少し暗くて、遠ざかる白い孤児院が灰色に見える。後から聞いた話だが、あの孤児院はこの男たち――神鳥統真・征継たち、神鳥家が出資しているところだった。だからこそ、仁科を連れ出すのがほとんど手続きらしいことを彼らはしなかったのだろう。
 名前を名乗った男たちを無言で見ながら、仁科はこれからどこに連れて行かれ、なにをさせられるのだろうとぼんやり考える。重大な、大事な任務。それを子どもに任せるというのだから、皆目彼には見当がつかなかった。
 しばらく車は静かに街中を走り、住宅街にたどり着く。その住宅街はどの家も柄が高くて、スモーク越しにも綺麗な庭が時々見えた。その中でも一際大きな屋敷が見えてくる。その屋敷は和モダンという風格で、ほかにも大きな建物がいくつか景観を壊さないように建っている。屋敷の敷地内に入った車は、奥まった建物の前に停車する。ドアが開けられ、統真と征継に続いて仁科も降りる。重厚な玄関ドアが開かれ、三人は建物の中に入っていく。
 旦那様がたお帰りなさいませ、という言葉にひとつ鷹揚に頷いた統真と征継の後ろを、はぐれないように仁科は小走り気味に追いかける。女中や執事たちは、そんな彼を不思議そうに見ていた。統真と征継はお目当ての部屋にたどり着くと、ノックを三回して入るぞ、と部屋に入る。そこには二人の女性と、三人の青年がいた。

「楓、澄音、美鶴はどうしている」
「今寝たところですよ、お父様」
「あなた、本当、この子ったらおとなしくって。さっきまで崇征たちに遊んでもらってにこにこしていましたよ」
「楽しそうに笑っててさぁ、ぐずったり全然しないんです」

 楓、澄音と呼ばれた女性たちと、崇征と呼ばれた青年と、彼より少し若く見える青年たちは楽しそうに笑っている。仲睦まじい家族にしか見えないそこに、仁科が加わっていいのか不安になり、入り口の壁際でぽつねんと立っていると、こちらに来なさいと統真が呼ぶ。
 おそるおそる仁科が彼らのもとに向かうと、統真は中央に置かれたベビーベッドを指で示す。仁科がベビーベッドの中を見ると、そこには生成色の柔らかそうな布に包まれた赤ん坊がいた。さきほど眠ったばかり、と言っていたように、その赤ん坊はすよすよと気分良さそうに眠っている。仁科がすやすや眠っている赤ん坊を見ていると、統真が後ろから声をかける。

「お前はこの子を護る男になれ」
「この子を、まもる」
「そうだ。この子が心安らかにいられるよう、お前がこの子を護る盾となるんだ」
「……この子を……」

 統真の低く、はっきりした声に導かれるように、仁科はベビーベッドで眠っている赤ん坊を見る。いつの間にか起きてしまったらしく、くりくりとした大きな目が仁科の顔を見つめている。ぐずったりしない、と言っていたのは本当らしく、こぼれそうなほど大きな目をぱちぱちと瞬かせながら、その赤ん坊は仁科をずっと見つめている。仁科もその視線を受けて、無表情のまま見つめ返す。
 面白くもない顔をしているだろう少年をじっと見ていた赤ん坊は、嬉しそうに口を開くと、ぱたぱたと手足を動かしたかと思うと、仁科の方に手を伸ばす。ぷにぷにの丸いパンのような手を必死に伸ばす赤ん坊に、思わず仁科は人差し指を近づける。赤ん坊は向けられた彼の指を握りしめる。柔らかくて、あたたかくて、焼きたてのパン生地のようなもちもちした手の感覚と、きゃあきゃあと嬉しそうに仁科の指を握ったまま笑っている赤ん坊に、仁科は呆然とする。
 
 ――軽く小突いたら死んでしまいそうな存在に必要とされている、と感じる。仏頂面で、それなのに身体能力が良すぎるから、孤児院の同い年の子どもたちに馴染めなかった自分が必要とされている。
 それだけで十分だった。仁科は右手の人差し指を握りしめられたまま、この子にいのちをあげる、と小さく呟く。それが聞こえたらしく、赤ん坊の家族たちは、一瞬どよめく。まだ五歳の子どもが自分の生命をかけると言ったことに驚き、そしてそうか、と統真が呟く。

「生命を賭けるか。ならば、お前を誰よりも強い男になるよう、こちらもフォローしなくてはならんな」

 うんうん、と頷く統真に、他の家族たちは目配せをする。誰よりも決定権のある当主がこの調子で、なによりも護衛として育てるつもりの子どもも乗り気だ。子どもには過剰で苛烈で酷な訓練で鍛えてしまうだろう、と皆が思ったが、適宜自分達もフォローすればいいか、と即時にアイコンタクトだけで納得し合う。
 なにも知らないまま、仁科の手を握っている赤ん坊だけが笑っている。そんな空間で、統真は部下を呼びつける。少し置いてから走ってやってきた男たちに、彼はこの子どもが世界で一番の護衛になるように育てるように命じる。命じられた側は困惑しつつも、統真の美鶴の護衛が半端な訓練で務まるか、という一喝を受けて、ただちにプランを練ります、という元気のいい返事が返ってくる。
 赤ん坊に指を握られたまま、仁科はひっそりと決心する。この赤ん坊が自分の存在を疎ましく思って排除するまで、そばでこのぬくもりを護るのだ、と。
 そして、仁科は大人でも根を上げるような、過剰で苛烈で酷な訓練の数々を耐えぬき、圧倒的な肉体と精神を持つ男に成長した。赤ん坊だった美鶴も、仁科のことを気に入っていて、ことあるごとにかわいいと言ってそばに置き続けてきた。おそらく、彼女の目には山のような筋肉の鎧を着込んだ男は、ちょっと大きなテディベアのように見えているのかもしれない。
 美鶴が成長して、彼女が五歳の誕生日を迎えた日。それは八月の暑い日だった。いつものように訓練をしている仁科に近寄った彼女は、小さな日傘をさしていた。
 大人に混じって大人顔負けの訓練を積む十歳の仁科は、ことのほか骨の成長速度が速く、食事量は成人男性の倍食べていた。筋肉が異常に素直に育つ体質だったらしく、トレーニングの効果が爆発的に発揮されすぎて、既製品の大きめサイズの服が窮屈なほどだった。素材開発班はどよめいた。この子に限界はないのではないのか、と。
 同い年の子どもより大きな身体をしている仁科に、美鶴は怖がる様子も見せずに近寄ってくるのだ。少し離れた場所にいる彼女の家族は、それを微笑ましく見つめている。仁科は片膝をついて、彼女に頭を下げる。すると彼女は持っていた傘を仁科も入れるように位置を変える。ちいさなフリル付きの日傘の影が仁科の顔にかかると、美鶴は嬉しそうに笑う。

「お兄ちゃん、なんてお名前?」
「……仁科です。仁科、貴臣です」
「にしなくんね」

 にしなくん、おっきくてぬいぐるみみたい。
 にこにこしながら笑っている彼女は、少し考える素振りを見せる。仁科は彼女が持っている日傘を受け取るべきか悩んでいると、彼女はあろうことか日傘を放り出して、仁科の首に細すぎる両腕でしがみつく。突然のことで仁科の動きが止まってしまったことに気が付かない彼女は、家族の方を見ると大きな声を上げる。

「おじいちゃーん! みつるね、この子ほしい!」
「……!?」
「あのね、みつる、おねつ出したときに、この子がそばにいたら、さみしくないよ!」

 むぎゅむぎゅと仁科を抱えて大きな声を上げる美鶴に、家族は近寄ってくる。おじいちゃん、だめ、と首を傾げて尋ねる彼女に、祖父・統真が勝てるはずもなく。すぐさま警備部門のトップを呼びつけ、仁科を今日付けで美鶴の護衛スタッフの一人にするように告げる。
 警備部門のトップが何かを言う前に、美鶴がにこにこの笑顔を見せる。

「この子、みつるのおそばにいてくれるの?」
「ああ、お前が望む限りな」
「うれしい! あのね、にしなくんね、ずーっとみつるのそばにいてね」

 ほっぺをりんご色に染めた美鶴の笑顔に、警備部門のトップは天使、と呟いて崩れ落ちる。
 ほやほやふわふわした彼女に抱きしめられながら、仁科は、この隣は誰にも譲らない、と心に誓いなおす。その目には美鶴の笑顔しか映っておらず、彼女よりも優先するものがない男の目をしていた。

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