「……みた?」
「……みた」
佐竹夫妻は昼の買い出し(ファストフードのテイクアウト)を済ませて帰宅したところだった。子どもたちの分と自分たちの分のハンバーガーとフライドポテトを手に、思わず足が止まった。
最近あった桜崎グランフォレストタワーの大規模修繕工事(事情は明らかではないので、一部住民は不審そうだが、佐竹一家はエレベーターの振動音が減ったし、ゴミステーションが便利になったのでちょっと嬉しい。なにより年頃の娘がいるので、監視カメラが増えたのがセキュリティもあがって嬉しい)の関係か、割と最近は人の出入りが多かったのだが、その二人は明らかに異質だった。
すれ違った黒髪を後ろでまとめた小柄で細身の若奥様(佐竹夫人はあれが若奥様……と呟いてしまった。テレビドラマの若奥様も裸足で逃げ出すぐらい、その言葉が似合うのだ)が、こんにちは、と鈴を転がすようなきれいな声で挨拶をしたから、こんにちは、と返事をした。そこまではよかった。いや、まあ彼女の後ろを歩いていた人物が気になって、それどころではなかった気もするが。
若奥様の後ろを、山が歩いていたのだ。少し日に焼けたような肌をした男性は、まさに山だった。若奥様より頭ふたつ近く大きく、身体の横幅は若奥様二人分ありそうだった。正面から見たときは壁だと思ったが、会釈して通り抜けていく彼の幅は分厚かった。首も肩もお腹もおしりも太ももも分厚い。体の全部のパーツが屈強すぎて、柱かな、と佐竹紳士の脳が勘違いした。
仲睦まじく角部屋に向かっていくのを見送った佐竹夫妻は、その扉が閉まるまでその場に立ち尽くしてしまった。このフロアの角部屋は、最近ずっと作業員が出入りしていた部屋だった。
「え、あの部屋!?」
「入って行ったな……」
「わぁ……」
なんとも言えない顔になってしまって、二人はお互いの顔を見る。中肉中背。決して分厚いとは言えない、平均的な体。身長も飛び抜けて高いわけではないが、低くもない。ちょっとビール腹だったり、おしり垂れ始めているが普通の身体つきだ。
お互いに普通ということを確認してから、二人は自宅に帰る。ただいま、と気が抜けた声で言えば、おかえりー、とテレビの音声と一緒に返事が返ってきた。
▼▲▼
美鶴は新しい我が家になった部屋に入った。ドアのセキュリティは通常の二段階だけではなく、ドアノブに生体認証機能も追加された特注ドア(外装は他の部屋のドアと一緒。握り手は仁科の握力左右平均百三十キロが力をかけても大丈夫な材質と構造になっている)の先には、仁科の規格外に大きな靴(幅広・甲高という重厚な三十二サイズ)対応の大きさのシューズケース。上にはちょっとした小物が置けるように仁科の腰あたりまでの高さのタイプだった。
廊下にすでに用意されていた、お揃いのふわふわもこもこスリッパ(開発名はふわみつスリッパ。美鶴の幅狭めの二十二サイズでごく軽量のものと、仁科の幅広・甲高という重厚な三十二サイズは布+複合装甲層+筋力反応ソール+特殊吸震構造で床にも優しい構造で重さ三キロ)に履きかえた美鶴は、ぱたぱたと軽い足音を立てて廊下を駆けていく。それを後ろから仁科はゆっくり追いかける。
……といっても、美鶴の二歩が仁科の普段の一歩なので、すぐに追いつくのだが。
「みて、貴臣さん。家具、このお部屋にぴったりよ」
「そうですね」
「あ、あのダンボールかしら。お洋服とか、小物とかって」
「そのようです」
仁科と美鶴が並んで作業ができるように高さの違う作業台が設られたキッチン(幅・奥行きともに仁科の肘幅対応された大きさで、耐荷重は五百キロまで対応している。素材は大理石風に見えるが炭素繊維複合コアだ。抗衝撃性天板/滑り止め/傷つかない加工/熱耐性機能がついている)の向こうには、ローソファー(低反発×高反発の多層クッション/骨組み:超高強度スチール+外装木製調。設計開発した人間は、超頑丈ベンチを包んだ芸術品と満足していた)が置かれている。ソファーの上には毛足の長いクッションも置かれている。このクッションは美鶴が実家で愛用していたものだ。
ガムテープで止められた大きなダンボール箱を前に、美鶴は上に乗っていたハサミ(一般的な文具用ハサミより二回りぐらい大きい。これは仁科用の特殊合金で作られたハサミだ)を手にしようとする。ほっそりとした美鶴の華奢な手を制して、仁科はハサミを手にする。刃を広げて、ガムテープを切ろうとしたとき、固定するように置かれていた仁科の左手がみしゃり、とダンボールの中に沈む。どうやら梱包用の一般材質のダンボール箱だったらしい。
沈んだ左手にきょとん、とした仁科だったが、ハサミを置いて、そのまま崩れたダンボール箱を素手で解体する。ダイナミックな光景だが、手つきはいたって丁寧そのものだった。彼は丁寧に、優しく触る男なのだ。ただちょっと、ふとした瞬間の力のかかり方に素材が耐え切れないだけで。
解体されたダンボール箱からは、美鶴の洋服が出てくる。ベージュやアイボリー、パステルカラーの柔らかい色合いの服たちを見た彼女は、棚にしまわないとね、とにこにこしている。ふんふん、と鼻歌を歌いながら、美鶴は寝室の衣類収納棚に向かう。これはクローゼットだった部分を専用収納棚に改装したのだ。超高強度特殊合金でできた特製支柱(床固定)のフレームハンガー(仁科専用ハンガー付き)の下部に作られた引き出し(木目調だが、これも特殊素材でできた軽量金属の収納箱である)を引っ張り、美鶴は服をしまう。おそろいのパジャマ(ふわみつスリッパと類似の、ベビーピンクの色をしたふわふわもこもこで、胸元にローマ字で彼女の名前が金糸で刺繍されている。肌触りが良く、吸湿速乾、体温保持機能を持っている。垂れた長めのうさみみ付き)を取り出し、美鶴はベッドの上に置く。
キングサイズのベッドは、シンプルな無地の生成色だ。フレームは超高強度スチールに外装木製調。マットレスは上層が美鶴用柔らかマットで、下層が仁科用高密度耐圧分散フォームの分層構造だ。仁科の専用生地から派生した掛け布団とシーツはさらさらしていて、触っていて楽しくなってしまうほどだ。
服をしまい、寝巻きも準備した彼女は、ちっとも仁科が自分の服を仕舞いに来ないことに気がつく。美鶴がリビングダイニングを後にするときは、他のダンボール箱を解体しているように見えたから、彼用に作らせた服を抱えてくると思ったのだけれども。
不思議に思いながら、美鶴はぱたぱたとリビングに戻る。そこで見たのは、ダンボール箱から取り出した服を見ている仁科だった。彼の太く、分厚い手のひらには美鶴とおそろいのパジャマ(上下合わせて約四キロ。見た目ふわふわ、内容物は防寒+筋肉緩和設計。ベビーブルーカラーで、胸元に彼の名前が金色で刻印されている。美鶴とは違い、クマの耳を模している)を乗せたまま、彼は美鶴を見る。
「おそろいのパジャマ。ね? わたし、すごくうれしいの」
「……はい」
「おんなじ部屋で、おんなじベッドでね、あなたと寝てみたかったの」
「……」
「だって、わたしの部屋だとベッドが壊れちゃうけど、貴臣さんのお部屋、ベッドもお洋服も全然なかったから……嫌だった?」
「嫌では、ありません」
事実、警備部門のスタッフ寮では、仁科は必要最低限のものしか持っていなかった。スーツ上下、インナー上下、トレーニングウェア上下がそれぞれ洗い替え含めて三着ずつと、大盤タオルケットが二枚。彼の持ち物はそれだけだった。家具もインテリア小物も持っていなかったのだ。
内装やインテリアを手がけるスタッフや、衣料品を手がけるスタッフたちはベッドや机、パジャマや外出時に着るトップスなどを提案したり、時には彼の部屋に運び入れたりしていたのだが、すべて仁科は丁寧に断ってきた。
ベッドで眠ると、体が沈みすぎて違和感がある。ベッドにかかる負荷を考えると、寝返りを打って体がずれないように敷いた滑り止めマットの上で寝た方がいい。有事の際に即時行動ができるようにトレーニングウェアで眠ったほうが効率がいい。彼の正論をスタッフたちは崩せず、結局二十年近く彼はミニマリストも真っ青な生活を送ってきていたのだ。
警備部門の同僚曰く、部屋に入った瞬間、寝ていたはずの仁科と目があったという話や、寝ていたはずなのに床に痕跡がなかった、という話もある。医療班からすれば、そもそも仁科は四時間前後の短時間睡眠をしている上に、常時緊張状態であるのは適切な休息ではないと散々言って聞かせていたのだが、本人は問題ないの一点張りで流されていたのだ。彼らからすれば、美鶴の「一緒のベッドで寝たい」というおねがいは渡りに船だった。
スタッフたちの「まともな人間生活を送って欲しい」という気持ちと、美鶴の「一緒にスーツ以外の服でデートがしたい」「おそろいのパジャマを着て寝たい」という気持ちが合致した結果、仁科の服は一週間分も増えたのだ。
しかし、それが彼の本意ではないなら、申し訳ないことをしたな、と美鶴は整った顔を曇らせる。彼女が悲しんでいることにコンマ一秒以下の速さで気がついた仁科は、パジャマをあぐらをかいた膝の上において、彼女のほっそりした手をとる。
「パジャマや私服というものに慣れていないだけで、あなたとおそろいのものが嫌だということはありません」
「……本当? 貴臣さん、いつもわたしを優先してくれるから……」
「私は、あなたが喜んでくれるなら、どのような服でも喜んで着ます」
「本当?」
「はい、本当です」
「嫌じゃない?」
「嫌ではありません」
「ならよかった。あのね、ベッドもきれいだったの。さらさらしててね、寝たら気持ちよさそうよ」
「そうですか」
仁科は服の山を抱えて立ち上がる。美鶴も一緒に立ち上がり、仁科の丸太のように太い腕に寄り添う。はやくはやく、とはしゃぐ美鶴に、仁科はふっと口元をわずかに緩める。ぱたぱたとスリッパを鳴らして楽しそうに笑っている美鶴をエスコートするように、仁科はゆっくりと歩を進める。
ちなみに、仁科の服はパンツとTシャツが一キロあるし、カッターシャツは二キロ、軽量ジャケットが五キロある。スラックスやチノパンも四キロあるし、緩やかに見える素材のカーディガンだって三キロだ。スーツジャケットにいたっては六キロある。
片腕で荷物を抱えて、ドアを開けようとした仁科を視線で制して、美鶴は扉を開ける。それを申し訳なさそうにした彼に、美鶴はふわりと笑っていう。夫婦でしょ、と。
「ふふ。貴臣さんとはじめて寝るの、たのしみ」
「……そうですか」
「……照れてる?」
「……はい」
ジャケット類をハンガーにかけながら、素直に返事をしてくれる仁科。そんな彼を、美鶴はベッドの上に座って、かわいい、とにこにこ微笑むのだった。