それが恋になる瞬間

 美鶴には五歳のときからお気に入りのテディベアがいる。
 正しく言うならば、そのテディベアは人間なので、そう呼ぶのは間違いだ。しかし、美鶴の第一印象は大きくてかわいいテディベアみたいな男の子、なのであまり間違っていない。
 身体が強くない美鶴が熱を出せば、眠るまで一緒にいてくれる。彼の訓練が終われば、美鶴の勉強に付き合ってくれる。美鶴が頼めば、膝に乗せて本の朗読もしてくれる。熱を出さなくたって、美鶴が呼べばすぐに来てくれる。
 多忙な家族たちは、とりわけ年が離れた美鶴を可愛がってくれるが、彼女が一緒にいてほしいときには、その忙しさからなかなか一緒にいてくれない。かといって、護衛の男や女は、今度は仕事中の大人だから遊んではくれない。だからこそ、訓練をしているが大人ではない、大きなテディベアのような大きな少年・仁科貴臣は美鶴のお気に入りだった。
 美鶴が私立の小学校を卒業して、中高一貫校に入学してもそれは変わらなかった。いて欲しい時にいてもらう。美鶴のお気に入りのテディベアは随分と大きく育ったが、それでも美鶴にはかわいいテディベアだったし、それは変わらない予定だった。
 高等部に入学した年のある日、美鶴は神鳥本邸の中庭にいた。仁科は警備部門のスタッフに呼ばれ、美鶴から離れていた。日差しは少し強いが、風が涼しい夏の日だった。レースの日傘をさした美鶴は、中庭に用意されているベンチに腰掛けていた。夕食の時間までまだ少し余裕があるから、中庭を散歩しようと思っていた彼女は、その途中で足が少し疲れてしまったのだ。
 体力をつけないと、と思っていた美鶴は、ふとあげた視界の端に見覚えのある人影が映り込んだことに気がつく。それは最近ゆるやかに身長の伸びが落ち着いた仁科だった。縦にも横にもすくすく筋肉と骨が発達した彼を見つけて、疲れた足を動かして会いに行こうとする美鶴。
 軽やかとは少しばかり言いにくい足取りで仁科の元へ向かおうとした美鶴は、仁科の隣に誰かがいることに気がつく。座っているときは建物の影で見えなかったようで、その人物は訓練を行う中でも数少ない女性教官だったはずと美鶴は思い出す。仁科は五年前から実戦にも出るようになったとはいえ、定期的な訓練を怠っているわけではない。だから教官といるのはなんらおかしくはない――のだが。
 仁科はいつもの無表情だが、ぽん、と腕を叩かれている。話している内容こそ聞こえないが、軽く叩く様子に良い内容なのだろうと想像がつく。女性教官はそのまま仁科から離れていったが、美鶴は内心複雑だった。仁科が女性と話している――ただそれだけで、なんとも言えない苦い気持ちが広がっていく。
 コーヒーのシミのような苦々しい気持ちが広がってしまって、美鶴の足は止まってしまう。きっと表情もひどいものだったのだろう。美鶴が近寄っていることに気がついていたらしい仁科が、どうかしましたか、と尋ねる声に、何も返せる気がしなくて、美鶴は首を小さく左右に振る。それでも仁科は心配なようで、膝を折って、俯いた美鶴の顔を覗き込む。彼に顔を見られたくなくて、スカートの裾を掴んでいた手を離して顔を覆うよりも早く、仁科の手が美鶴の手を包んでいた。

「お加減が悪いように思います。休みましょう」
「あ……うん……」
「飲みものを持ってまいりますので、あちらのベンチでお休みください」
「う、うん……!」

 仁科に手を掴まれたまま、美鶴は火照る顔と逸る鼓動にどうしようもできなくなる。かあっ、と赤くなる美鶴の顔に、仁科はお熱があるようです、と大きく無骨な手で美鶴の小さなおでこに触れる。それこそ熱を出した美鶴に何度もしてくれた光景だというのに、なぜだか今日に限って、なんとも言えないむず痒い気持ちになってしまう。
 赤くなった美鶴の顔を観察していた仁科は、失礼します、と声を掛けると彼女の細い身体を持ち上げる。お姫様抱っこしたのだ。本格的に体調を彼女が崩すよりも早く、ベッドに運んだほうがいいと判断してのことだったのだが――美鶴には衝撃が大きかった。未だに自分がなぜ女性と仁科が話しているだけで嫌な気持ちになったのか、仁科が自分に優しくしてくれると胸が逸って嬉しくて恥ずかしくなるのか、美鶴には分からなかった。
 落とさないように、しかし迅速に運ぶためにいつもよりずっと大きな歩幅で歩く仁科。大きな足なのに足音がしないな、とぼんやり考えながら、美鶴は仁科のシャツを握ってみる。最新技術を詰め込んだ、仁科専用のシャツは美鶴のものより少し硬いような気がした。首筋から少しだけ香る、彼の汗の匂いにすらくらくらするようで、美鶴はいよいよ本格的に体調を崩したのかも、と考える。
 目を少しだけ閉じていたと思っていたが、気がつけば美鶴は自分の部屋のベッドの上にいた。靴はいつの間にか脱がされ、ワンピースの一番上のボタンは緩められていた。大丈夫ですか、と心配そうに覗き込む仁科に、美鶴はそっと彼の頬に触れる。カサついた肌。自分だけを見てくれる目。いつもの仁科だ。美鶴が好きな、お気に入りのテディベアだ。

「うん。少し良くなった……と思う」
「お夕飯は食べられそうですか」
「うん……たぶん……」
「では、料理長に伝えます。美鶴様の分は軽めにしてもらえないか、と」
「えへへ……いつも少ないと思うけど……」
「食べられる分を、無理なく食すことが大切です」
「うん……そうだね」

 料理長のもとに向かうために立ち上がろうとした仁科の裾を、美鶴は思わず掴んでしまう。掴まれた仁科は少しだけ驚いた様子だったが、すぐさま膝を折って、いかがしましたか、と美鶴が何かを伝えたいのだと理解してくれる。
 それがたまらなく嬉しくて、彼の中心は自分なのだということが確認できて美鶴は思わず笑みを浮かべてしまう。

「あのね……伝えてきたら、戻ってきてほしいなって……」
「もとよりそのつもりでしたが」
「えへへ……仁科さん、早く帰ってきてね」
「はい。可能な限り、迅速に戻ってまいります」

 美鶴の手をひとつ、強く握ってくれた仁科は、その手を離すとすっくと立ち上がって部屋をあとにする。残された美鶴は、まだいてほしかった、という気持ちと、でも彼ならすぐに帰ってきてくれる、という安心感が綯い交ぜになる。
 まるでクラスの子が話している少女漫画みたい、とぽやぽや美鶴が思っていると、思わず美鶴はガバっと跳ね起きる。

「……え……? わたし、仁科さんに……?」

 仁科が自分以外の女性と話しているのが嫌で、でも彼が自分にだけ優しくしてくれるのが嬉しくて――それはたしかに、少女漫画によくあるシチュエーションで、たまにみる恋愛ドラマでもヒロインがヒーローに向ける感情に近しいものがあった。
 十年近くそばにいてくれた、お気に入りのテディベアだと感じていた仁科。まさかそんな、と思いつつ、美鶴は自分以外の女性と彼がもし、仮に、付き合ったとして、喜べるだろうかと考えて――すぐに頭を振って否定する。そんなこと、考えたくもなかった。

「はわ……」

 言葉にならない声をあげて、美鶴はふかふかの枕に顔を埋める。耳まで真っ赤になっているだろうな、と思いながら、彼女は仁科に恋をしているらしい自分のことを考える。
 家族に伝える、仁科本人に伝える。どちらにしても、美鶴は由緒正しい名家の末娘だ。家を継ぐわけではないけれど、だからといって好きな人と結ばれるとは限らない。家族は美鶴には滅法優しくて甘やかしてくれるから、許してくれるだろうけれど。
 仁科はどうだろうか。嫌ではないだろうか。そんなことをぐるぐる考え始めてしまって、気持ちが沈みそうになる。美鶴はふかふかの枕に顔を沈めたまま、むぐむぐと呻いてみる。
 とりあえず、今はまだ混乱していても、そろそろ戻ってくるだろう仁科に、いつもの顔を見せて安心させよう。美鶴は気持ちを切り替えるように、はふ、とひとつ息をついた。

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